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セラピーとしての「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」/多元宇宙というナラティブ・アプローチ

3/3公開の「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」。大好きな死体泳ぎ映画「スイス・アーミーマン」のダニエルズ監督作で、シャンチーの叔母さんが多元宇宙を行き来してカンフーで闘うという概要からしてワクワクしていたのだが、内容は実写版ボボボーボ・ボーボボと言うべきハジケ勝負のオンパレードだったし、久々に劇場で声を出して笑った映画だった。


数年前までほとんど邦画して観てこなかったので米国アカデミー賞というものにも疎かったのだが、それでもこの「エブエブ」がアカデミー賞で作品賞含む7冠を獲るということについては、なんだそれ!!と驚きつつニコニコしてしまった。しかし不思議と納得感もある。今、世界中が抱える疲労感にそっと寄り添い新たな視点を与えてくれる、心洗われるような映画でもあったからだ。



「エブエブ」で描かれる”ナラティブ“

「エブエブ」で主人公エヴリン(ミシェル・ヨー)は確定申告のために税務署を訪れた折、別世界の夫に導かれて“並行宇宙に迫り来る巨悪”と戦うことになる。経営不振のコインランドリー、父の介護、反抗期の娘などの問題を抱えるエヴリンは、並行世界で様々な能力を開花している別のエヴリンと繋がりながら能力を活かしてその戦いに身を投じていく、というのがメインのあらすじだ。


多元宇宙を舞台にしたSF映画、そして悪と闘うカンフー映画という枠組でありながら、この作品は“自分の物語を想う”ということを主題にしているように見えた。そしてこの主題は非常にセラピー的に思える。疲弊した心に新たな視点を与えるという点で、精神医療の分野におけるナラティブ・アプローチという手法に近いと感じたのだ。

“ナラティブ”とは物語を意味する言葉だ。お話の筋書きを客観的に捉えた“ストーリー”とは異なり、「語り手である私たちが主人公となる主観的な物語」のことであり、そこでは当人の視点が重要になる。ゆえに悩みを抱える人が語るナラティブは当人にとって否定的なものになりやすい。物語に支配され、変えられないと思いこんでいる。

ナラティブ・アプローチは、当人の物語を語らせることで問題を外在化させていく。当人=問題という状態を離れたうえで、対話を重ねながらその“否定で支配された物語(=ドミナント・ストーリー)”に対して例外的な目線を与えていく。考え方を変え、ドミナント・ストーリーを代替の物語(=オルタナティブ・ストーリー)に書き換え、“その見方もある”と心理を好転させていくのだ。


自我を放ち、今を見つめる

「エブエブ」はその過程こそすっ飛ばしつつも、脳内に“別の人生”を見せることでエヴリンの中に”オルタナティブ・ストーリー“を再構築していく。言葉を重ねることなく、多元宇宙の干渉によって体が自然に動き、能動的に自分の可能性を知っていく。その過程を通じて、至極ありふれた今を新たな角度で見つめられるようになるという心境の変化が描かれ、カタルシスが生まれていく。

エヴリンもそうだが、大抵の人は自分の物語を語るということをしないだろう。彼女が抱えるストレスフルな日々もまた、映画の中で描写されない限りはいつもの彼女の生活でしかない。しかしそこに仕掛けられたSF的なナラティブ・アプローチが、彼女の抑圧された自我を解放し、派手なアクション映画としての物語を成立させていく。このストーリーラインは、セラピーそのものだろう。

別の自分と繋がるためには突飛な行動を取らなければならず、その振り切れたギャグ描写があまりにもボーボボ的なのだが、それすら次第に”自我を解放する“というテーマに凝集していくようにも見えてくる。ゲラゲラ笑いながらもいつの間にか胸が熱くなってくるのは、観る側もまたその抑圧を重ね、痛快なまでに自我を解放する登場人物たちに自然と癒されているのかもしれない。


エヴリンはADHD(注意欠陥・多動障害)という裏設定があり、監督もまたその診断を受けていることから混沌とした忙しない精神の描写という観点からも語られている映画だが、この作品が放つメッセージは誰もが受信することができる。メンタルを保つために、別の物語をイメージするということ。この描写のために多元宇宙/マルチバースを用いた画期的かつ優しい大傑作と言えるだろう。



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