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分裂し続けるもの/クリストファー・ノーラン『オッペンハイマー』【映画感想】

クリストファー・ノーランの12作目の長編映画『オッペンハイマー』を観た。原子爆弾の開発の中心人物であるオッペンハイマー博士を描いた本作。映画2~3本分とも言えるほどの膨大な情報量に圧倒されながら、まさにこれが劇場で観る映画体験であると強烈な実感を覚えた。

時代の異なる3つの物語を並走させる、ノーランらしい時間のコントロール演出で伝記モノである以上の語り口を提示する本作。この映画について、オッペンハイマー自身の“分裂”、そしてもたらされた最悪の結末を幼少期より教え込まれてきた私自身の“分裂”を軸にして考えてみたい。



分裂と融合

オッペンハイマーは常に"分裂"を心に抱えた人物であった。共産主義に関心を示しながらアメリカ国家に深く関わる。妻とは別の女性を平然と愛する。「家族は大事だ」と思っているのに、友人に泣く我が子を預ける。そして原子爆弾の開発に専心し、その完成に納得しつつ、自分の発明がもたらした惨状に葛藤するように描かれる。この分裂の連鎖が物語を進行させていく。

ユダヤ人でありアメリカ人、留学で学舎を転々とする、そしてその国の言葉を数週間で操れるようになる、、と彼は望んでか望まずか、当人の同一性を保ちづらい経歴を歩んできた。その分裂しやすい同一性を束ねていたのが圧倒的な頭脳ということなのだろう。そのアンビバレントさを象徴する出来事として尊敬する教官の机に毒を注入したリンゴを置くシーンがあった。

その不安定が学生時代の性的な欲求不満であったことを明かし、後に愛人となるジーンと性行為を行う場面で「我は死神なり、世界の破壊者なり」と言葉を発せさせられる。分裂を統合するために性的または知的な悦びに身を浸しながらも、それゆえにまた次の分裂が生まれてゆく。その先に待つのは自らを引き裂く自分であることまでもが示唆された本作の印象深いシーンだ。

そしてこれらの"分裂"のモチーフ、または性行為やチーム集結といった”融合"のモチーフはそのまま核分裂/核融合という原子爆弾の基本構造へと投影されていく。この秀逸さが次項で述べる本作を観て私自身が分裂し続けた理由である。


光を飲み込む重力

本作はとにかく映画としての興奮度が極めて高い。上に挙げたような、巧みな"分裂"のメタファーの散りばめもその1つだが、圧倒的な音響とスピーディな画、そこに緻密な法廷劇/会話劇を織り交ぜ、ひと時も休まらぬ緊張感で映画に惹きつけていく。主演のキリアン・マーフィを始め、役者陣の演技の凄みにも酔いしれてしまう。言葉を選ばずに言えばかなりエンタメ性が高い。

作品中盤、原爆の最終実験であるトリニティに向けてドラマが高揚していく。手に汗握る展開である。爆発に至った瞬間の鋭く眩い光と吐息の演出。そして遅れて響き渡る大爆音。大成功の後、オッペンハイマーに捧がれる喝采。凄まじいカタルシスである。最悪の現実がこの先に待っていると知っているつもりでも、その昂ぶりが観客である私を飲み込んでいった。

映画的興奮に身を委ねてしまう自分と、なぜこんな悲劇をこれほどのスペクタクルに?と戸惑う自分。この2つに分裂しそうになりながらも、目を離すことができない。映画の登場人物の多くが知的好奇心や焦燥感によって底知れぬ闇へと引きずり込まれていったように、私もまた芽生えた興奮に抗えない。ここに人間が真に向き合うべき危うい心の移ろいがあるように思えた。

本作では”光をも飲み込む重力が生じる“という星が消滅する時のエネルギーを原子爆弾の威力を重ねる場面があった。この映画もまた私の中の何かを確実に飲み込んだ。映画表現の恐ろしさを改めて思い知るのだ。


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