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罪の在る結末/濱口竜介『悪は存在しない』【映画感想】

濱口竜介監督による『ドライブ・マイ・カー』以来の長編映画『悪は存在しない』。その重厚な映画体験を今も反芻している。というより、あのように切断的に現実へと投げ出される結末を受け取っておきながらそうしないわけにはいかない。

緊張と緩和、長回しとぶつ切り、相反する要素を織り交ぜながら得体の知れない感情を炙り出してくる本作。全編に渡って人間の心が持つ柔らかさ不気味さの両方が喉元に突きつけられる。私なりの解釈で本作の精神を分析していきたい。

疎通の可能性

《あらすじ》
自然に恵まれた長野県水挽町でつつましく暮らす(大美賀均)と娘の(西川玲)。ある日、巧の家の近くにグランピング施設を作る計画が持ち上がる。 それは経営難に陥った芸能事務所が政府からの補助金を得て計画したもの。そして彼らが町の水源に汚水を排水しようとしていることが判明する。


本作の舞台となる町はグランピング計画への動揺を隠せない。まるで町の集合的無意識かのように全面的な肯定派はいない。それも当然、住民にとっての特別な誇りであり、生活の中枢にある大切な水源が汚されかねないのだ。この町が抱く芸能事務所に対する抵抗は、人と人とが疎通しようとする上で立ちはだかる障壁そのものと言える。

他者にとっては誤差の範囲であることが自分にとっては微細さゆえに大切なことである、ということは多々ある。この映画における説明会のシーンはその苦々しさを描き出す。町の住人が発する種々の態度は一つの人格の心中で渦巻く様々な葛藤に見える。攻撃的に反発したり、不安に怯えたり、時に達観しようとしたり、揺れ動いている。

そんな中、主人公であり町の便利屋である巧はもっとも冷静な存在として映る。町の理性として、あらゆる感情を調整しているような描かれ方だ。彼が他者との疎通の可能性を示し、ぶっきらぼうながらも静かに歩み寄っていく様はコミュニケーションの1つの理想だ。一面では語り切れない”悪”らしき他者を真っ直ぐ見つめようとする。

映画内でも“悪”らしき芸能事務所側の多面性を分解するシーンがある。デリカシーなく見える振る舞いにもそうせざるを得ない理由があり、説明会で表に立った2人の揺らぎもまた芸能事務所側という一つの人格が抱える種々の葛藤の一部分と示される。上司という名の支配が解けた場面で見えてきた本心には、こちらも安心して笑えてくる。

事務所側もまた、別のやり方で他者との疎通の可能性を探ろうとする。とってつけた言葉や加速化する思考ではなく、身体感覚を通して相手の心を知ろうとする。これもまた1つのコミュニケーションの理想と言える。肝心のではなく表層の温かさを実感してしまうあたり、ややズレがあるにせよ、そのあり方は“悪”とは言い切れない。

映画の大半は、これまで書いてきたようなギリギリのバランスで疎通の可能性を探り合う、心の柔らかさについての物語が展開される。雄大な自然と滑稽な都会を対比しながら、少しずつその境界が滲んでいくような作劇である。しかしラスト10分、物語は不気味なものへと移り変わる。そしてここで「悪は存在しない」という題を想うのだ。


悪の在処

物語の最終局面。巧がいつも通り学童保育のお迎えを忘れ、花が1人で帰宅する。合流しようとするも花は見つからず、行方不明になる。町中の人々で探し周り、東京から来ていた芸能事務所の高橋(小坂竜士)と黛(渋谷采郁)も一緒に捜索を行う。そして巧と高橋が鹿の水飲み場でようやく花を発見する。しかし花は、人を襲うとされる手負の鹿と見つめ合った状態だった。

高橋が花を助けようと足を踏み出した瞬間、巧が高橋の首を絞め落とす。カメラが切り替わると花は鼻血を出し、その場に倒れていた。息もしていない。巧は花を運び出す。高橋は一度は起き上がるが、再び倒れる。巧の息遣いだけが聞こえる中、森を抜けるシーンを下から上を見上げるアングルで映し出し映画は幕を閉じる。

とても突発的で唐突に思える結末であり、ここまで積み上げてきたコミュニケーションの話が全て無に返すような極めて暴力的な終着点に見える。しかしここに、こういったテーマを語る際に無視しがちな”制御不可能な領域”の存在を実感するのだ。人が人と決めたルールや暗黙の了解が関係ない世界もあり、人は不意にそこに触れるのだ。


精神分析家メラニー・クラインの理論を基にして“悪”について述べたこの論考を参考に考えてみたい。そもそも人間とは赤ん坊の未発達な世界であっても生の本能と死の本能が渦巻いており、その2つを分割する過程で破滅(死)に満ちた自己部分を他者に投影し、を客体化することでそこに破壊性を向け、破滅の不安から逃れるのだ。

成長するにつれ自身の中にある破壊性を自覚し、外的世界にしか存在しなかったを自己の内的世界にも感じるようになる。これが罪悪感だ。罪悪感を自身の中に抱くことで、自身の破壊性を剥き出しにせずに他者との関係性を維持できるようになる。他者の中に見ると自身が抱える罪悪感の根は共通しており、その調整が重要なのだ。


映画の話に戻る。巧は彼の内面を劇中でなかなか明かさないが、妻は何らかの理由で不在であり花との関係性もぎこちない。そして最終的に自らの過失で花を傷つける。巧の中には甚大な罪悪感が膨らみ、それから逃れるための理由を探す。もしもこの日、高橋や黛がここに来ていなければ。高橋や黛と対話の可能性を探ろうとしなければと。

高橋が花の方へと歩み寄ろうとした瞬間、罪悪感はそもそもこうなった原因である高橋の方へと向く。他者の中に見ると自身が抱える罪悪感が混濁され、高橋の息の根を止めたのだ。上流で起きたことが下流に影響する。本作で繰り返される因果関係のルールに則し、花の死の上流たる高橋の存在を処理した。これが私なりの解釈である。


この町に芸能事務所がグランピング施設を計画したのは、元を辿ればコロナウイルスが原因である。これは自然の中で発生したものである以上、悪は存在しない事象だ。また手負いの鹿が花を襲ったのも自然の反応であり、そこに悪は存在しない。本作は自然から始まり、自然へと還っていく映画であり、確かにそこに悪は存在しない。

しかし何度も同じ過ちを繰り返し、また自然と共に生きてきたということを過信した罪が巧にある。何の理解もなく土足で踏み入れてきた罪が芸能事務所にある。この物語の悪たるものはとして存在している。それも全ては人と人の関係性の中に根付くものとして。ここに、人と人とが疎通することの根源的な不気味さを思い知るのだ。


本作が描いたこの世界の制御不能な領域とは"自然"と呼ばれる場所のことでもあるし、人の心の中に根付く思いがけない感情の移ろいでもあるように思う。それらが絡みつくことで、悪は存在しないもののしかし罪が在る結末へと辿り着いた。この得体の知れない、しかし当然そこにあり続ける領域が可視化された映画を目撃した先、私たちはどう生きられるだろうか。柔らかさと不気味さの間で揺れ続けるしかないのだろうか。


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