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最期は“人間”になる/吉田大八『敵』【映画感想】

精神科医という職業上、私は他者の歩んできた人生について訊くことが多い。特に高齢者となればその生活歴の厚さは凄まじい。そして語っている現在の当事者とその歴史のギャップに驚くこともある。認知症でかつての仕事にまだ勤めていると思い込んでいたり、配偶者を亡くし抑うつ気分で全てに無気力になったりする。過去の時間の濃さが、今の自分を揺さぶっているようにも見える。


そんな“老い”に対する不安を鋭くテーマにした映画「敵」が公開中である。筒井康隆の小説を原作とし、吉田大八が監督を務めた1作。主演は長塚京三。本作の核になるのはかつての自分と相対化されてしまう現在の姿への眼差しだ。連続的に歩んできたはずの時間を不意に途絶される感覚が、終活と並行して巻き起こるサイコスリラーとして描かれている。様々なメタファーを解析し、本作が辿り着く“敵”の存在に迫っていこうと思う。



ままならぬ老年期

《あらすじ》
大学教授の職を辞めて10 年、妻に先立たれた77歳の渡辺儀助(長塚京三)は古い日本家屋に1人で暮らしている。料理は自分で作り、晩酌を楽しみ、たまにわずかな友人と酒を飲み交わし、教え子を招いてディナーを振る舞ったりしながら、日常は平和に過ぎていった。そんなある日、パソコンの画面に「敵がやって来る」と不穏なメッセージが流れてくる。

MOVIE WALKER PLUSより抜粋/加筆

心理学者エリクソンが提唱した人間の発達段階理論において、65歳以降は老年期と分類される。この時期の発達における乗り越える課題としては「自我の統合」が挙げられ、迫る死に対して自分自身の歩みを受け止め、身体的/精神的に自分という存在を確立し、平穏さの獲得が求められる。

主人公・渡辺はまさにその真っ只中だ。預金残高と生活スタイルを見比べながら最期の日を待っており、遺言状も完成間近である。しかし、あらすじににある通り、平穏とは程遠い不穏な事態へと巻き込まれることになる。無意識下ある死への根源的恐怖と生と”性“への執着が彼を脅かすのだ。

丁寧で自由な食生活、文化的な暮らし、社会的な高名さ、やぶさかではない感じのモテ方など、彼が充実した人生を積み上げてきたからこそ、抗えない“老い”の恐ろしさは際立つ。そのままならなさは、どう願っても思った通りにならない“”に似ている。本作はその2つを重ね合わせるのだ。

“老い”の心象風景を表現する上で全編モノクロの画面は強い効果を成す。色彩のない世界では全てが均質である。きっと美味しいはずの食事も色を奪われ、のっぺりとした質感を放つことになる。全てに無情さが漂い、あの世もこの世も、そして現実や夢も白と黒はフラットに捉えてしまう。

夢と現実の曖昧さを演出する上でもモノクロの画が際立つ。特に終盤、バーで知り合った大学生・菅井歩美(河合優実)にお金を騙し取られて以降、明らかに渡辺の精神運動がおかしくなる。そして夢から夢へ連なる、終わりなき夢オチの応酬へが開幕する。幻想が自我の統合を阻んでいくのだ。


メタファーに襲われる

一体いつまでが現実で、どこからが夢なのか分からない映画ゆえにメタファーを分析してもキリがないのだが、渡辺の深層心理が奇妙な描写に託されているのは事実だ。"枯れ井戸を掘る"という展開にも象徴的なように、心の奥底を掘り起こし、精神の底にあるものを探し当てる物語なのだ。

病院で女医に四つん這いにさせられ、肛門から内視鏡がシュルシュル挿入されていくシーンの辱め。亡くなった妻(黒沢あすか)にフランス旅行に連れていってくれなかったことを責められるシーンの後悔。奇怪さの差はあれど、どれも贖罪、それも女性に対する側面が大きいものばかりだ。

妻、教え子の鷹司靖子(瀧内公美)、編集者(カトウシンスケ)と渡辺による鍋のシーンは特に印象的だ。ここまでのシーンでも教え子に欲情してしまう渡辺の愚かさを幾多の幻想として具現化されてきたが、そこに妻も同席させて板挟みになり狼狽する。自らの夢で、自らを罰しているのだ。

また、ずけずけと家に上がり込み鍋の肉を食らい、妻を卑しい目で見て教え子に襲いかかるという編集者の図々しさは、渡辺がこれまで抑圧してきたものを投影されているのだろう。スマートでスタイリッシュにコーティングしてきた男性性が露わになり横溢していく様が描かれている。

筒井作品をジェンダーの観点から批評した以下の論考では、初期の作品では筒井自身の男性性を危機に陥れた少年期の体験を書き換えることで男性性の再確立を行ったとされている。1998年、64歳時に出版された「敵」で再び男性性が襲われる様を描くのは"老い"の宿命だったのかもしれない。

https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/record/2007586/files/lis2114.pdf




敵は誰だ

友人、居場所、仕事、または欲望の行き場など、社会的な繋がりが徐々に絶たれていく中、スパムメールで仄めかされた"敵"が渡辺を取り込んでいくことは想像に難くない。そう、言うなれば陰謀論。最初はバカにしていてもふとした瞬間にそれに惹かれ、いつしか心を埋め尽くすである。

本作の「敵」とは崩壊していく自己像そのものと言えるかもしれない。過去に問い詰められ、栄華は無関係になり、孤独に陥り、陰謀論に縋るようになる。何度も現れる黒く汚れた男たちは、自分が(まるで隣に住む爺さんのように)汚く老いぼれていくことを最も直接的に示す"敵"の姿だろう。

映画最終盤、"敵"の襲来は空襲や銃撃戦として表現される。渡辺は母の胎内で戦争を体験したという台詞があった。"敵"に自己を脅かされ、最後に辿り着いたのが胎内の記憶ということなのかもしれない。母という巨大な女性性に守られ、遂に渡辺は死へと向かう。男性性の終焉である。

渡辺が不在となった家で甥の槇男(中島歩)が双眼鏡で除いた先に渡辺の姿を視る、という恐ろしいシーンを経て誰もいない庭を映して本作は終わる。主体は消え、それを観ている者も消える。そう、もはや誰が居る現実で、誰が見ている夢かも分からないという開かれた結末に着くのだ。

誰しもに平等に降りかかりながら千差万別な表現形を持つ“老い”。渡辺の混乱を眺めている内に、観客もあらゆる可能性に直面するラストに思えた。どう足掻いても根源的なものからは逃れらない。最期にはどうしたって愚かな"人間"の姿を晒さねばならない。というよりも、今を生きている自己とは格好良く体裁を整えて偽ったものであり、最期にだけ"人間"になるというのが真理なのかもしれない。そう思えば、不思議と胸のすく作品にも思えてくる。いつか自分がこの年になる時、絶対に思い出さねばならない映画だ。


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