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病名のつかない苦しさ/『ナミビアの砂漠』【映画感想】

山中瑶子監督による映画『ナミビアの砂漠』が素晴らしかった。2人の男性を翻弄する魅力的で危うい女性の話、などと簡単に説明することは憚れる。この作品はまだ映画として表現されたことのない感覚を、主演である河合優実の爆発的な身体性を通して掴み取ろうとするような作品と言えるからだ。圧倒的な作家性と、圧倒的な役者の力が交差した衝動的で奇跡的な1本だ。

《あらすじ》
21歳のカナ(河合優実)は、人生に何を求めるのかわからず、何事にも情熱を持てずにいる。身の回りの世話をしてくれる恋人のホンダ(寛一郎)と同棲する彼女には、恋愛すら暇つぶしのようだった。そんな中、カナは自信家のクリエイター・ハヤシ(金子大地)と徐々に関係を深めていくのだが……

出典:ぴあ

本作の素晴らしさは様々な作品で掻き回し役として消費されてきた、“メンヘラ”と呼称されるような人物を眼差し、分かりはできずとも共に在ろうと試みる描き方をした点にある。もちろんそれだけではないが精神医療の側面も強く、興味深い描写が多くあった。本作が描き出そうとしたもの、そして本作がいかに特別な作品かについて、本稿では掘り下げて書いていきたい。



パーソナリティのグラデーション

カナの怒りが極限に達し、ハヤシと揉み合うシークエンス。ハヤシが家を出て走り出す後ろ姿を捉えた後、すぐにカナが精神科医(中島歩)にオンライン診察を受けるシーンに切り替わることに驚いた。精神科に行く/行かないについての喧嘩もありそうに思えたが自然に受診に移行した点を珍しく感じた。カナを誠実に描いている、と思った。

ここでカナが妄想状態でなく、自身の怒りを把握できていると示唆した点はあらゆる問題を"狂気"でまとめる乱暴さを避けることが出来ているし、何よりこの事態を物語の中で冷静に受診に繋げたのが進歩的だ。今まで逃げられたり無視されたり、親しい人の死や優しい家族の介入が変化をもたらしてきたくだりに新たな描き方が加わったのだ。



本作では受診の結果、”双極性障害境界性パーソナリティ障害“という曖昧な診断を受ける。個人的には双極性障害を疑うには情報が足りないように思ったが確かにパーソナリティ障害らしさは劇中でも多く描かれていた。慢性的な空虚さ、激しい怒り、そして感情の目まぐるしい変化などはそのまま診断項目(※1)にも当てはまっている。

またハヤシを理想化しつつ気に入らない態度を取られれば徹底して罵倒するというような、恋人を両極端な対人評価による不安定な関係に持ち込むのもまさにそうだ。「試し行動」と言われるあえて挑発するような言動をしたり、自分の命令に相手が従うよう仕向け相手からの愛情を確かめたりするなど、他者を渇望する様子も顕著だ。

ところがあくまでこれらは境界性パーソナリティ障害"らしさ"である。もしもカナが相手に受容されており問題が起きず診断の場で語られなければ、単にそういう人として見られるだけなはずだ。彼女が自分で問題だと捉えたからこそ治療段階に進んだだけで、彼女の行動に部分的にシンパシーを覚える人は多いだろうし珍しくはない。


本作の精神科医にはどこか信用ならなさが漂っていたが、時には病名をはっきりとさせないことが重要なのも事実だ。疾患と疾患の境界は曖昧なこともあるし、健康な部分と病的な部分のグラデーションもある。作中でカナの振る舞いを特定の病名に集約させなかったのは病気の話ではなく、あくまでその人物が抱えた苦しさを扱うためだろう。

病名をなぜ知りたいのかと精神科医から聞かれたカナは「自分を分かりたいから」と答えていた。病名がついたというだけですぐに苦しみの全てが解決するような答えが出るわけではない。しかし"分かりたい"という能動的な願望は間違いなく本作で描かれた数少ない"情熱"であり、カナがそれを言葉として発したことで事態は少しずつ変わっていく。彼女に宿った情熱は映画終盤、カウンセリングという形で受容されていくことになる。"メンヘラ"という記号化をさせない真摯さがそこにある。



分からなさを分かる

カナが「あの人、絶対私たちのこと分かってるよ」と隣人のひかり(唐田えりか)を指して言うシーンがある。もしその感覚が被害的になれば妄想などを考慮した別の治療を考える必要があるが、本人の苦しさが問題となる今回の状況でカウンセリングは最適な治療だ。カウンセラー(渋谷采郁)のトーンも抜群で、信頼が構築される様が見える。

映画の中でカナの排泄、嘔吐、浮気など秘すべき(とされている)ことが開け広げに描かれる。「考えてることとやってることが違う人ばっかりだったら怖くないですか?」という台詞もあるが、彼女には裏表や葛藤がない。時につく嘘もまた自分の欲望に正直なだけなのだ。全てがオープンゆえに彼女の心の根っこには辿り着くのも難しい。

しかしカウンセリングのシーンで彼女の振る舞いが整理されていく。母国を見失っている所在なさ、妊娠中絶への激昂、そして父親への矛盾した感情などから、苦しみや虚無の根源が垣間見える。言語を介さず内的世界を掘り下げる箱庭療法のシーンでカナは緑豊かな木を1本立てる。治療を通じて心の根っこが可視化されたのだ。


この前段でハヤシとの大喧嘩の最中、スクリーン上にワイプが現れる。ランニングマシーンを走るカナがスマホで自分の喧嘩を眺める場面に画面が取って代わられるが、これは自分自身を客観視する力が育まれ、走っているのに前進しない疲弊への気づきを示唆する場面に思える。箱庭のシーンもワイプ世界で描かれ、治療の進展が伺える。

箱庭に置いた木は森のイメージへと広がる。カナはその森でひかりに理解ある言葉を与えられる。想像の世界のようだが、恐らくカウンセリングを経て得た気づきの再現だろう。自分の荒れた生活の傍で粛々と英会話を習うひかりと、淡々と自らの仕事に真摯に取り組むカウンセラーの姿を重ね合わせ、静かな寄り添いに想いを馳せるのだ。

そして喧嘩は急に止まる。ハヤシとカナは共に食事をする。冷凍庫で発見された元彼の作り置きハンバーグはカナの終わりなき退屈の象徴だ。そして突如始まるビデオ通話で母親の親類から中国語を浴びせられ戸惑い笑う。自分を認識する"母国"の存在が不意に心を解すのだ。この場面、なぜか部屋の配置が反転している。変化の兆しだ。

その後、ハヤシは電話口から聞こえた「听不懂」という中国語の意味を尋ねる。カナは「"分かんない"」とその意味を伝え、2人が笑い、映画は終わる。"分からない"ということを"分かった"という着地点。カナはこれからも退屈さの中で自分自身の"分からなさ"を少しずつ分かりながら生存を選んでいくのだろう。きっとハヤシはこれからも攻撃を受ける。しかし最後に"分からない"を共に笑えたことが、共に在れる可能性を示す。続く生活を少し優しく思い浮かべられる幕切れだ。



異端なのか普遍なのか

この映画はカナを捉え続ける作品であり、私的な出来事を積み上げる物語ではあるのだが、同時に普遍的な苦しみを掬い取ってもおり、その点が本作を特別にしている。例えばMBTIのブームにも顕著なように”自分を分かりたい“という欲望は時代性を反映したものであるし、何も異端な悩みではない。重ねて言うがカナは珍しくないのだ。

そして漠然とした孤独感や疎外感についても然りだ。劇中にあるつまらない会話ややり取りが繰り広げられるシーン(家族キャンプでの背比べや「私もカナ」のくだりなど)の数々が身に覚えのある苛立ちや倦怠感を伝えてくる。日常の延長にある世界にカナが居ること、そして自分の内側にもカナと共振する部分があることを実感できるはずだ。

自分と世界そのもののズレ。人々の大半はそのズレに気づいてはいるが誤魔化しつつ生きられる。しかしカナはそのズレを受け止められず抵抗する。それが傍からは暴走的な行動に見えるのだ。カナが怪我の回復以降でより不安定になった原因の1つは、怪我で身体を動かせないため"ズレ"と強制的に向き合わざるを得なかった時間だろう。


ハヤシがかつての恋人と選択した妊娠中絶を自身の創作に活かしているのでは?という疑問にカナの怒りは爆発する。怒りはその出来事自体に対して向けられてもいるが、重要なのは「カナには関係ない」と言われたことにある。確かに彼女に直接は関係ない話だろうし、自分と他人を区別して考えられない点は病状とも捉えられかねない。

しかし我々も世に蔓延る自分とは無関係(に見えるよう)な問題に、無性に苛立ち怒る時がある。自分を重ねているのか、義憤に駆られているのかは分からない。生き易くあるためにはスルーすればいいことを、生き難くなれど見過ごせない瞬間が誰しもあるだろう。そうした人間らしさをカナは体現し、怒りたいもの、怒るべきものに怒るのだ。

先述した通り、健康な部分と病的な部分にはグラデーションがある。カナの抱える病名を持たない苦しみはこのグラデーションの中に漂っているのだ。だからこそ我々は映画を観ながらカナの感情と時に共鳴し、時に離別しながら自らの内側へと目を向けざるを得ない。貴方の怒りは、苛立ちは、諦念はどこから来たのかと問われ続ける。


野生動物ようだとカナを評する声もあるようだが、私はむしろ生々しく、誤魔化さずに人間らしさを捉えた作品に思えた。ナミビアの砂漠のライブカメラ映像のインサートはカナを動物のように観ているのはどいつだ?という差し返しが込められているとさえ感じた。カナを鑑賞物として他人事とみなすのを許しはしない、しかし容易く自分事として語ることも許されないだろう。そんな解釈のグラデーションの中にも放り出され、逃げられぬ映画体験。異端な顔をした、新しい"普遍"がここにある。


(※1)「 DSM-5 精神疾患の分類と診断の手引」より



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