欲動と享楽を巡る旅/宮﨑駿「君たちはどう生きるか」の精神分析的な1つの見立て
宮﨑駿監督の10年ぶりの新作長編映画「君たちはどう生きるか」に打ちのめされている。その幻惑的な世界と複層的な作品構造が思索に耽ることをやめさせてくれない。様々な見方がある作品であり、多くの解釈が既にある中で私も私なりに精神分析的な見方で本作を好き勝手読み解いてみようと思う。
眞人のエディプス・コンプレックス
精神分析の創始者・フロイトは男児とは元来、母親に性愛的感情を抱く生物であると捉えた。ゆえに母親の性的なパートナーである父親に敵意を持ってしまう。最初は母親を手に入れようとするが、次第に父親に去勢されるのではないかと不安を感じるようになる。そして父親との対立をやめ、母親を手に入れることを諦めることで精神が自立し、発達していくのだと言う。これは無意識で繰り広げられる葛藤ゆえ、基本的に前景化することはない。この一連の精神発達理論をフロイトはエディプス・コンプレックスと名付けた。
「君たちはどう生きるか」は主人公の眞人が胸に抱く母親への思慕を推進力に進んでいく物語だ。火事で母親が亡くなったことで封じられていたはずの母親への想いが溢れ、何度も再会したいと願う。これは奥底に秘めたエディプス・コンプレックスが再び心の表層部に昇り始めた状態と言えるだろう。
しかし願うことで出会えたのは母親そっくりな母親の妹・ナツコだった。大好きな母親の面影を重ねてしまう別人と同じ家で暮らすことなった眞人の心は不安定になる。しかもナツコと眞人の父親も既に結ばれているのだ。幼児期に感じた去勢不安に近いような形で父親への強い嫌悪感が芽生えていく。
ある時、実母がこの世に残した痕跡である本「君たちはどう生きるか」と出会い、縋るような想いでそれを読み耽る。そしてその直後に母親の面影を持つ、言うなれば"代替の母"であるナツコを追って異世界へと向かう。母と"代替の母"への混在した欲動がエディプス・コンプレックスを肥大させたのだ。
アオサギとイド
フロイトの理論では、人間の心は「イド(id)」「自我(ego)」「超自我(super-ego)」に分かれているとされる。「イド」は無意識の領域であり、様々な根源的な欲求がそこにある。欲求を満たそうと「イド」は動くが「超自我」という見張り番によって制御される。「超自我」はしつけや教育などによって心に組み込まれ、欲求を制御しようとする。そして「自我」は我々が自覚している心の部分で、「イド」と「超自我」の調整役を担う。
こう見立てると、母親の生存をほのめかし眞人を異世界へ導くアオサギは眞人のイドのように思えてくる。アオサギは眞人の弱さや狡さを煽り、母親と繋がりたいという欲求を駆り立てていく。悪意によって石で自らの頭を打ち付けて以降アオサギが眞人へ接近を強めた点もその象徴を際立たせている。
これらの欲求は「超自我」たる父親からの抑圧、言うなればルールや法によって制御されているが、眞人はそれから逃れるようにアオサギと共に行く。そして足を踏み入れた異世界はまさにイドそのものが奔逸しているかのようなあらゆる想像に溢れ返る世界だ。ここで彼は様々な存在に出会っていく。
異世界が何を模すのか
本作の異世界は幅広い解釈を含有する。死の世界であり、現実世界になる源泉のような前世界であり、アニメや創造にまつわるメタファー世界である。本稿での読み筋は眞人の精神世界だ。無意識の中に広がる秩序のない混沌。未発達な精神が描く"想像"そのもので、現実世界のルールは通用しない。
異世界の存在もまた様々に解釈が可能である。例えばペリカンは現実世界では表させられない暴力的な欲求を模しているように見え、それに捕食される"ワラワラ"はその対極にある生命の根源たる愛のようなものに思える。インコは軍隊を持つ"法治"の群衆で大王は強く支配的だ。これは父や父なるもの、または現実世界を覆う戦争や法への恐怖を表しているかもしれない。
多種多様なモチーフの中、母親のイメージだけは常に明確だ。ヒミ、ナツコ、キリコ。この3人の登場人物と眞人の関係がこの映画の中核を成す。
母から生まれ直す
ヒミは眞人が追い求め続けてきた実母の異世界での姿である。時空も規範も越える精神世界だからこそ、眞人は亡き母親であるヒミと親密であろうとする。食べ物を食べ、共に歩き、長らく抱えていた欲動を叶えようとする。精神世界だからこそ母と繋がるという欲動の満足="享楽"を実現させるのだ。
現実世界では女中の1人である老婆キリコは、精神世界では頼もしい若い女性の姿をしている。彼女は眞人が憧れてしまうような理想的な母性のメタファーと言える。眞人は常に男性的な力を嫌っているが(アオサギを遠ざけ、ペリカンの猛追に耐える点が実に禁欲的だ)、その反面でこの世界の進み方を示す先導者を求めていた。彼が行き詰まったタイミングで出会った"勝気"で"姉御肌"だが“ケア”をしてくれるキリコは彼にとって最も信頼できる母性と言える。母ではない他者の中に求める母性、のイメージがキリコには宿る。
他者の中の母、実母の存在様式が現実世界とは違うように、"代替の母"であるナツコも現実世界の人物とは異なり、あくまで眞人の精神世界で描かれたナツコである。ナツコは眞人の父親との子を身籠っており、異世界の産室で出産の時を待つ。その場所で眞人と接触し、眞人はここで初めてナツコを「ナツコ母さん」と呼ぶ。この時、眞人は"代替の母"から生まれ直そうとしたのではないだろうか。眞人が現実世界で欲動を満足させるにはナツコからもう1度生まれ、ナツコを実母にしてしまうしかないと思ったのだろう。
しかしインコが仕込んだ紙の鳥がその生まれ直しを阻む。前項で述べたがインコは恐怖のメタファーであり現実世界での戦争や父を示す。戦火(らしき火事)で実母を亡くし、父は"代替の母"であるナツコまでも身籠らせ、眞人のものにさせてはくれない。更に直接ナツコからも拒絶が言い渡されてしまう。インコの一連のモチーフたちとナツコからの拒絶によって眞人は"享楽"を奪われ、インコ=恐怖/父/法に囚われる。そして物語は最終段階へと進む。
欲求/享楽/意思
ナツコからも生まれ直せない事実に直面した後、大叔父なる存在から精神世界に浸り続ける道を提示される眞人。この世界に身を置くとはもう現実には戻れない、つまり現実世界での死を意味する。しかし自分の想像のままに(苦労しながらも)世界を創り出すことができ、ヒミ=実母とも一緒に居続けることができる。父ではなく大叔父という別の法が眞人にもたらされたのだ。
アオサギ=イド=欲求の力を借り、インコ=法=父親=恐怖を騙しながら大叔父と出会う眞人。ここで彼が選んだのは、"代替の母"のままであるナツコとともに現実世界へと戻り、そこで生きていくということだった。眞人は友達を作るのだと言う。その例としてアオサギが挙げられていたのが重要だ。眞人は自らの意思で欲求と肩を組むことで、欲求と共に生きていくことを誓ったのだ。そこには暴力性が減退した、極めて健康的な欲求の形がある。
そう考えると、産室でナツコが眞人を拒否したのは、眞人自身の意思だったと考えられる。くだらないダジャレを言っているように聞こえても仕方ないかもしれないが、もしも産室を形作り、世界を形作っているという"石"が"意思"のメタファーなのだとすれば。眞人が産室で生まれ直せなかったのも、現実世界に戻った時に眞人のポケットに石が入っていたことも、彼の意思がそうさせたのではないかと読めるではないか。欲求をコントロールし、現実世界と向き合う"意思"を育む。これが眞人の精神を巡る冒険の到着地点だ。
人生において、人は最も気持ち良かった"享楽"には二度と辿りつけない。これは精神分析家ラカンの言うところである。時にこの事実が人を死の欲動に導いたり、ノスタルジーに浸らせっきりにしてしまう。しかしそんなままならない心を抱えた上で享楽の痕跡や代替を求めながら、そこそこ満足しながらこの世界を生きていくことを選ぶことをこの作品は肯定する。無意識の欲動と現実世界からの要請の軋轢を乗り越え、現実の世界で何を行いどう満足するのか。その問い掛けこそがこの映画の先で我々にもたらされるものだ。
私たちはどう生きられるのか
眞人には享楽(実母との繋がり)の痕跡や代替として、母の本やナツコの存在がある。そして何を行うのか、は最後に大叔父が示したように自分の手で世界を創り出すということだ。資本主義と戦争に囚われ自身の男性性を振りかざす父とは違う道筋で、自分の手によって別の世界/生き方を作り出そうとするその姿。ここに創造というテーマが浮かび上がってくる。そして眞人は宮﨑駿であり、この作品の根底に流れる欲動こそがスタジオジブリの源流であったことが示唆される。これこそが宮﨑駿の創造の始まりだったのだ、と。
この映画が宮﨑駿の精神世界なのだとするならば大叔父は先人の作家たちでもあり、宮﨑駿自身とも言え、自分同士が対話しているような場面にも見えてくる。時間軸も関係なく混然とした世界の中で創造のルーツと母親への思慕と向き合う。この作品そのものが宮﨑駿の精神分析なのだ。この映画にある全てが彼の無意識に広がる世界を拾い上げたものなのかもしれない。
ネット上では宮﨑駿はマザコンだという嘲笑的な消費のされ方をよく目にする。確かに本作はその傾向が強く、気持ち悪さや不快感を示す人もきっと多くいるはずだ。しかし最初に述べた通りエディプス・コンプレックスは人間の根源だ。恥じ、隠し、押し殺してきた無意識の根源なのだ。その全てを晒け出して作りあげたこの芸術をマザコンというラベルだけで消費することは少し寂しいように思う。この映画は彼が欲動と現実に阻まれる精神を昇華させて生み出した、これ以上ない人間らしさの結晶ではないか。
根源的なドロドロした幻想や、正しさを越えて自分を届けたいという願望。それらが結果的に誰かを救う物語を作り得る、という事実はこれからの表現者をきっと鼓舞する。誰にも言えない欲動を抱えた子供たちが勇気づけられることにも繋がるはずだ。この映画に存在する塔のように1人1人の無意識を引きずり出し人間の根源を揺さぶる。それが「君たちはどう生きるか」なのだ。この映画を見た先で、私の心は何を求め、どう生きられるのだろうか。
《参考文献》
『現代精神分析基礎講座 第1巻 精神分析の基礎』古賀 靖彦 編,
『疾風怒濤精神分析入門』片岡一竹・著
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