世界が回るのか、自分が回るのか(哲学的な話と体調不良的な話)
数日前までの話。
体調不良で咳をしすぎてしまって三半規管がおかしくなったのか、
頭を動かすとめまいがした。
最高39.4℃まで熱が出た。
2日間は昼間もずっと何もせずにひたすら寝込んだ。
もうだいぶ良くなってきたので
めまいを何度も繰り返していたときに考えていたことを
書き残してみる。
めまいを起こすと、
世界が回る。
いや、世界は回っていない。
回っているのは私。
いやいや、私は回っていない。
回っているのは、、、なんだろう。実際には何も回っていない。
では何が回っていたのか、
私の目。私の視覚。
私の目が異常な動きをして、
まるで世界が回っているかのように映し出した。
改めて考えてみる。
「私の目は回った」が「私は回っていない」
変な表現かい? 何が違うか?
「私の目」と「私」
を別物として扱っているのです。
「私の目」が映し出す世界を見ているのが「私」
そう、別次元なのだ。
「①私」が「②私の目」を通じて「③世界」を捉えている。
①は主体
③は客体
②は(主体が客体を捉える為の)道具
そんな関係性
主体である私は動いていない。
もし、主体が動いていたら、客体が動いているかどうか分かったもんじゃない。
動く電車から隣の動く電車を見ている時、相手の方が動いているという判断ができなくなるのと同じ現象。
私は動かない人。
動かないからこそ、動いているものを動いていると正しく認識できる。
私が捉える客体にはどんなものがあるか?
・私の外の世界
・時間(変化の認識とは、時間の流れの認識)
・私の肉体(数年前とは変わったなぁと感じる)
・私の感情(昨日とは違う感情)
おやおや、私の肉体や感情までもが客体になっているではないか。
そう、それらも「私」が捉える「客体」
私は時間に縛られず、感情に縛られず、肉体に縛られない、
究極の主体。ただただ見ているだけの人。
これ、ヨーガのゴールである哲学的なお話。