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『あとがき』|映画鑑賞日記

 人生とは、1日1日を積み重ねた結果だ。だから、毎日を何とか持ちこたえながら過ごしていると、「なんなんだよ、もう!」と思うことが多い。
 でも、最近、ちょっと振り返って、積み重ねてきた日々を俯瞰して眺めてみたら「私にしては上出来なんじゃないの?」と思えるようになってきた。

 そんな私に、ちょうどぶっ刺さる作品に出会ってしまった。刺さりすぎて、長文になった。



あらすじ

 路上で一人芝居をしながら役者を目指す春太は、吃音を持つアーティスト・レオと出会う。気付けは、春太の部屋に住み着いたレオ。夢を追う者同士、共に日々を過ごすにつれ、互いにとってかけがえのない存在になっていく。
 しかし、春太を取り巻く環境の変化に伴い、彼自身の役者への気持ちも揺らぎ始める。下北沢を舞台に、2人の8年間を描いたストーリー。

人生の選択をしてきたすべての人に見てほしい作品


すぐそこにいそうなほど、リアル

 私には、役者を目指している知人もいなければ、アーティストの知人もいない。そういう人たちの苦労も知らない。それなのに、彼らが本当に実在しているのではと思うようなリアルさがあった。
 いや、正確には、
形は違えど、誰しも心の中に春太とレオが共存しているのではないか
 と言った方が良いのかもしれない。
 そのくらい、「この感情、知ってる、分かる」と思わされるシーンが多かった。
 夢を追いかけたことのない私でさえそう思ったのだから、夢を追いかけたことがある人は、どう感じたのだろうか。夢が叶った人も、叶わなかった人も、いろいろと思い出して胸が痛くなるのではなかろうか。

 本作は、実在する2人をモデルに描いた作品らしいので、そういう意味では本当に彼らが実在していると言えるのかもしれない。そこに制作陣の解釈が加わった本作オリジナルの人物に仕上がっているのだろうが、細かいところが現実味を帯びていて、“自然”だった。


え、129分!?

 本作は129分――つまり2時間9分――ある。8年間を129分に圧縮していると思うと決して長いとは言えないが、それなりの長さだ。

 しかし、実際に観ていると、冗長に感じることはなかった。
 物語を追うなかで、登場人物たちの機微に触れ、自分自身と照らし合わせ、押しやった過去の記憶や感情をえぐられ、肯定され……みたいなこと繰り返していると、あっという間だった。
 結構ガツンとくる重みのあるストーリーを129分も届けられたら、観ているこっちがぐったりしてしまいそうなのに、まったくそうならなかったのがすごい。

 各シーンが長くなりすぎず、しかし短すぎることもないため、展開が早すぎると感じない程度にテンポよく月日が流れていく。
 リアルさの話にも繋がるが、「こういうことをしていると、いずれ……」みたいな部分についても回収してくれ、ご都合主義みたいなことがない。酸いも甘いもある感じが、現実味を増す効果と同時に、物語の緩急としてもちょうど良く感じられた。
 大家さんとのシーンとか、本当に好き。


春太の彼女・日向

 本作を観た人たちは、どの登場人物に対して一番近しいものを感じるのだろう。春太やレオなのかな?

 しまね映画祭では、上映後に玉木慧監督とラジオパーソナリティの高田リオンさんのトークイベントが行われた。
 その際、高田さんはご自身が東京でアーティスト活動をされていたことに触れ、
「東京でアーティスト目指している人の9割はこういう生活をしていると思ってもらっても良いです。そのくらいリアル」
「春太に共感するけれど、心のどこかに小さいレオがいるんですよね」
「かさぶたを、こう、ピリッとめくられるような感じ」
 とおっしゃっていて、とても分かりやすくて素敵な表現だなぁと思った。

 一方、私は、春太の彼女である日向に対して「分かる~」となり、傷を抉られていた。
 春太の誕生日を一緒に過ごせなくなっても、記念日を一緒に過ごせなくなっても、電話口では「良いよ」と言いながら、電話を切ると一瞬真顔になってしまうところ、とか。
 それが嫌ということではなく、もちろん応援している気持ちは本当で、事情に対しても理解はしている。でも、自分のどこかが削られていく感じに、とても覚えがあった。

 春太が俳優の道から離れると決めたときも、日向は顔を曇らせる。それは、春太の夢が自分の夢にもなっていたからかもしれない。諦めたら、ずっと我慢して切り捨ててきた自分自身はなんだったのだろうか、という気持ちになったからかもしれない。または、諦めるために私との未来を理由にするなよ(お前の人生の選択の責任を私にぶん投げるなよ)、という気持ちだったのかもしれない。

 ぜんぶ知っている。ぜんぶ、私が過去に彼に対して思ってきたことだ。
 私の彼が、彼の夢を叶えることに要した時間は11年。付き合ってから11年だ。その間に、周囲の人たちは付き合っては別れ、付き合って結婚し、子どもが生まれたりしていた。高校から付き合い、誰よりも長く付き合っていた私たちが、ずっと置いて行かれているような気がして、辛かった。
 辛くても誰にも言えなかったし、彼の夢を応援しているのに、そんなことを思う自分を最低だと思っていた。

 道を変えた春太と結婚するも、春太は仕事に邁進し、日向とすれ違っていることにも気づかないまま生活していく。家事もすべて日向――彼女も正社員で働いている――がこなしており、会話もない。
 夜遅くに帰ってきた春太が、適当にソファに放ったジャケットを、日向が片付けようと手に取り、逡巡した後、ソファに放るシーンとか……分かる。
 やっと夢を叶えて就職した彼と同棲し始めたのに、激務と飲み会と付き合いの遊びで、家事をしないどころか私との時間を一切取ろうとしなかった彼を思い出させる。

 日向と私が違う点は、日向は心が折れてしまってもう無理だと自分で気付き、離婚を切り出しているところだ。
 私は、心が折れた自分を責め、自分がおかしいのだと思って直そうとした。家事も、折れた心でできる最低限のことだけをやっていた。仕事と家事以外になにもする気になれなかったのは、今思えば、軽いうつ症状だったのだろうが、気付けなかった。
 最終的に、夫となった彼が浮気をして離婚を切り出すまで、私は離婚することを考えもしなかった。本当は、私もずっと辛かったのだと、離婚するまで気付けなかった。

 作中に登場するプロデューサーが
自分を鍛えることなのか、傷付けることなのか、きちんと見分けることが大切」
 というような話をするシーンがある。過去の私に教えてあげたい。


2つの主題歌

 本作は、本作の中にさらに『あとがき』という作品がある、という構造になっていたと思う。
 もう1つの『あとがき』の主題歌は、レオが作った『Vanilla』という曲だ。これは、2人の8年間を綴った曲となっている。
 春太がこの曲をライブハウスで聴き、それでエンドロールになるかと思いきや、そうはならない。

 その後、ライブハウスを出て歩く春太のエピローグとともに、本作の主題歌である『アンダー・ザ・ドッグ』が流れ始め、そしてエンドロールになる。
 この作りがとても面白かったし、『Vanilla』ではこらえたはずの涙が、『アンダー・ザ・ドッグ』の出だしで我慢しきれなくなった。

 この点について監督に質問したところ、
「『Vanilla』はレオのモデルになった方の曲で、良い曲だけど、それでは2人にフォーカスしすぎてしまうと思った。だから、もう少し俯瞰した形にしたかった。『アンダー・ザ・ドッグ』は既存曲だけど、ぴったりだと思った」
 というような回答をいただけた。

 なるほど!
 前述したように、私は春太やレオよりも日向に一番共感していた。だから、『Vanilla』では、どこかまだ2人のことだと思って客観視して「良かったね~」みたいな気持ちでいられた。それでも泣きそうだったけど。
 しかし、そこから距離を置いた『アンダー・ザ・ドッグ』で閉められることによって、2人の物語が一気に自分の人生の話に切り替えられた。だから、涙がこらえきれなかったのかもしれない。

 今までなら、絶対にこういう場で質問をするタイプではなかったが、勇気を出して聞いてみて良かった。


変わるもの、変わらないもの

 本作のテーマである、変わるということ。
 ただ、本作は「変わることが良いことだ」とも「変わらないことが良いことだ」とも言わない。
 自分の意思に関わらず、環境の変化に適応するために変わらざるを得ないこともある。変わりたいから、変わることもあるだろう。一方で、人は変わらないもの(街並み、人や店など)に安心感を抱くこともある。生きていくうえで、どちらも大切なのだと思う。

 また、自分では変わったと思っても、人から見たら変わっていない、ということもある。それが良い場合もあるし、良くない場合もある。そういうシーンも、本作では描かれている。
 例えば、自分自身では変われたと思っている春太に対し、「変わっていない」と静かにこぼす日向のシーン。また、久しぶりに会ったアニキに対し、春太が「アニキは変わらないですね」と快く言ったときの、アニキの表情。

 私自身、特にこの1年間は重点項目として自己改変を意識してきた。見た目の話ではなく、考え方や行動を変えようとしてきた。でも、私を見て「相変わらず元気で、変わらないね~!」と言ってくれる人もいる。
 そういうときの、ちょっとした寂しさと、でも嬉しい気持ちが入り混じった感覚があるから、このシーンは印象に残っている。

 本作が上映されたしまね映画祭の会場・松江テルサは、それこそ駅周辺の再開発で撤去される見込みだ。また、本作が3月に上映されていたらしい、松江東宝シネマも閉店する。
 作中で、春太が下北沢の駅周辺の変貌の話をするシーンを観ながら、「偶然にもメッセージ性溢れる会場だな、これ……」と思った。


おわりに

 こういう作品に出会ってしまうと、その日はもう何もしたくなくなる。余韻にずっと浸っていたくなってしまう。

 上映とトークイベントが終わり、パンフレットを買って、玉木監督にサインと写真撮影をしてもらって、帰りのエレベーターに乗ったあたりで
「自分の現実に帰りたくないなぁ」
 と思ってしまった。

 それでも、自分の現実を生きてきたからこそ、こういう作品がぶっ刺さるようになったのだろうな。
 だからまぁ、また、ぼちぼち頑張っていくかなぁ。