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むかしむかしのその昔⑬ 読み捨てられていく雑文のこと
私は今日、古い雑誌「SFの本4号」を手に外出した。何かわけがあって選んだのではなく、まだ読んでいない部分があったな、と思ったからだった。
この雑誌はとても古かった。1983年11月の発行だった。いやはや40年前じゃないか(笑)。
ちょうど寺山修司が亡くなった頃だったため、追悼記事が出ていた。一人の筆者は私がアメリカ旅行で一緒だった川本三郎氏だった。川本さんの記事がとてもよかったので、今日は川本さんの記事をもとに寺山修司を語りたい。
川本さんは冒頭で、「寺山修司を『詩人』『劇作家』に限定し、ことさら故人を『前衛芸術家』として称賛しているのを読んで少しく寂しく感じた。」と書いている。それは「私にとっては寺山修司は『偉大なる雑文家』だったからである」と。
私は長い間、総合雑誌の論文—あの大学教授たちの悪文に反発を感じ、同時に、「書きことばの共和圏」が、知識階級だけを相手にしてゆく、思想の階級性といったものに反発を感じてきた。
上記の文章を引用し、さらに川本はこのようにつづけている。
寺山修司は “現場から集めてきた言葉” を大切にした。それは新宿の公衆便所の落書きであり、スポーツ新聞の広告であり、青春人生雑誌の投書欄であり、パチンコ屋の有線で流れている歌謡曲であり、野球場の野次であり、酒場の溜め息だった。
川本は、有名な寺山修司のテーゼ「書を捨てよ、町へ出よう」がアンドレ・ジイドの『地の糧』からの引用であることにもふれ、「引用」された言葉が寺山の文章のなかで別の命を生き始めたと記している。
また、もう一つのテーゼについても次のように書いている。
寺山修司のテーゼの1つに「詩人は『幻を見る人』ではなく『幻を作る人』である」というのがある。おそらくこの言葉は寺山修司の遊戯性、あるいは言葉そのものの遊戯性を語っている。平たく言えば、”言葉さえあれば幻想だろうがイデオロギーだろうが何でも作ることができる” という遊びの精神である。これは言葉は一つの確固たる主体に対応しているという近代の主体性の神話とはまったく別の場所で発想されている。「私」の解体・混乱こそが現代の宿命であるが、同時にこの「私」の崩壊は一つの言葉の死とともに無数の言葉の誕生を意味している。
ここまで書いてきて、忘れていたことが浮かんできた。私が本の製作にかかわるようになって2つめの職場となった 場所へ導いてくれたのは、寺山修司の劇団「天井桟敷」に参加していた人だった。彼が早稲田大学付近でもらったチラシを見て、私は C+F を訪ねることになったのだった。
とても不思議な縁だ。そんな偶然が人生を変えてしまうのだから。