梅香
再就職のために職業訓練を受けました。そこでプレゼンテーションの講義があり、仕上げとして訓練生の一人ひとりがプレゼンを行いました。与えられたテーマは「3年後の私」。今から何年も前のものですが、ここに紹介したいと思います。
私の入院生活中に始まったドラマ「ラジエーションハウス」。それは私の子宮頸がんがわかって、放射線治療をすることになったタイミングでした。退屈な入院生活を送りながら、このドラマを楽しみにしていた頃のお話です。
きのう、5年ぶりに友達に会った。 わたしは表参道から246を青山一丁目まで歩いた。 待ち合わせ場所に着いたら、足がつりそうになっていた。 まずい! 腰をおろして友達を待った。 久しぶりの対面はお互いに笑顔で、 無事を喜び合う(年配者のあるある)。 友達は昔から翻訳の仕事をしていた。 『クマのプーさん』や『ピーターラビット』の翻訳をされた 児童文学者の石井桃子さんのファンだった。 その友達はいつもわたしの子どもたちに絵本を贈ってくれた。 友達は、「親が選ばないような本を見つけ
先週、古本屋で絵本を買った。 田島征三さんの「ほら いしころが おっこちたよ ね、わすれようよ」。 古本屋さんは、田島征三さんのことを知らないといったが、 「表紙の絵がとてもおもしろかったので入れてみた」と話してくれた。 私は以前から田島征三さんを知っていた。 絵本制作のかたわら、山羊を飼い畑仕事をしていた画家である。 物語も確認せずに、私はこの本を購入した。 4年ほど前から私は国際交流協会でボランティア活動をしている。 そこで外国からきた子どもたちに絵本の読み聞かせをした
私はプライベートで日本語を教えている。 先週、ミャンマー人の子どもたちから 「先生、飛行機に何回乗ったことある?」と聞かれた。 数えたことはなかったけど、かなり多い。 返答に困って「数えられないくらい」と答えた。 子どもたちはちょっと驚いたようだった。 私が初めて海外旅行に行ったのは1980年。 それ以前にも、実家のある福岡と東京間を何度も行き来している。 1980年、いきなり香港、アメリカ、シンガポール、と旅をした。 その年、アメリカでは国内線も使った。 それからも、北京
先日、大河ドラマ「光る君へ」で、源氏物語の豪華本を製作する様子が描かれた。それを見ながら、私は母と一緒に出かけた九州国立博物館の「本願寺展」を思い出した。 その年、親鸞の七五〇回大遠忌を記念する「本願寺展」が展示された。 世界遺産に選ばれた本願寺には「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」ほか、国宝4件、重要文化財24件を含む約130もの品々が、遠い昔の生きた証として展示されていた。 ドラマに登場した源氏物語の豪華本も美しかったが、その後生まれる国宝の「三十六人家集」
私の息子が小学生のとき、学校から帰ってきてこう言った。 「おかあさん、四捨五入すると50だね」 のけぞりそうになった。 たしかに計算は合っている。 私は36で息子を生んだので、彼の言うことは正しかった。 まだ自分では考えたことがなかった大台を さらりとわが子に言われてしまい、ちょっと傷ついた。 しかたない。それは現実だから。 息子だって無邪気に算数でならった四捨五入の話をしていただけだ。 今朝、ネットでこんな記事を見た。 息子に「四捨五入すると」と言われたけれど、 よか
夏から秋に変わる頃、私が一番好きな時季だ。 今年はまだまだ猛暑が続いているが、 空を見上げると、やっぱり秋の空になってきた。 あまりの暑さに日が暮れても、部屋を閉め切って 冷房をがんがん利かせている家がほとんどだが、 私は、帰宅するとまず玄関を開け放して 家中の窓を開けて風通しをするようにしている。 熱風が通ることもあるが(笑)、 「暑さ寒さも彼岸まで」の言い伝えのとおり、 夕暮れになると涼風が入る今日この頃である。 世の中は三連休で、静かな私の町も、 人通りや車の交通量が
いつ書こうかと思いながら、毎日「虎に翼」を見ている。 私が東京に来て初めて勤めたのが、神田淡路町だった。 ドラマによく登場する「竹もと」のモデルは、 淡路町から通りをはさんだ須田町にある「竹むら」だと言われている。 私もよく行っていたので、どうしてもタイムスリップしてしまう。 揚げまんじゅうが有名な老舗甘味処竹むらは、 昭和5(1930)年の開業。 竹むらのはす向かいには、あんこう鍋の老舗「いせ源」。 なんと、いせ源は天保元(1831)年の創業だという。 そして、そのすぐ近
9月、うかうかしていたら、もう半月すぎようとしている。 「暑い、暑い」とうなだれているだけで時間がすぎる。 私は10月に検定試験を受ける。 その勉強をしなければならないが、図書館、カフェ、レストランなどで 集中して取り組めるのはせいぜい2時間。 どうしても集中が切れてしまう。 正直にいうと、集中が切れてしまうと、 そこへ戻るのがとてもむずかしい。 休憩や息抜きという言葉があるけれど、 私にとっては、すでに次のステージに変わってしまうからだ。 最近はその展開が早い。早いとい
近くに行きつけの呑屋がある。 常連たちが通う店で、いろいろな人に出会える。 なんの話からそこへたどり着いたのかすっかり忘れてしまったが、 北海道の植松努という人のことを聞いた。 うちに帰ると、その人のスピーチの動画がLINEに入っていた。 とても心に残るすてきなスピーチだった。 その動画は9年も前のものだったが、すごいインパクトがあった。 夢のこと。出会いのこと。やってみること。 足りないから助け合うこと。夢をかなえるためのアイデアを考えること。 みんなぶっつけ本番の人生な
8月になって「虎に翼」を見ていたら、 ”永遠を誓わない、だらしのない愛” というフレーズに出会った。 「あ、私たちと同じだ(笑)」、とすぐに思った。 36年前、私はNYのブルックリンの教会で結婚式をした。 私たちはNYに住んでいたわけではなく、 私が休暇をとって遊びに行ったついでに式をあげた。 ブルックリンに住んでいる友人に頼んで、 式をあげられる教会を紹介してもらい、 事前に打ち合わせなどをして式に臨んだ。 出席者は結婚する2人を含めて11人。 それでも、荘厳なパイ
この記事を予告してから、ずいぶん時間が過ぎてしまった。 私のつれあいはいつも最終電車で帰って来る。 7月のある日、最終電車の到着時刻よりも早い時間に、 最寄り駅から連絡がきた。 「動けない」 駅で電車を降りてすぐにふらついて座り込んでしまったそうだ。 ホームにへたり込んでいるから、迎えにこい、とのこと。 私は飲み物と、冷却ジェル枕、保冷剤、濡らしたタオルなどを持ち、 駅にいるであろう彼のもとへと急いだ。 どこにいるのかよくわらかず、うろうろしていると 「反対側だ」と電話
私は結婚願望はなかったのに、あるとき結婚した。 相手も結婚願望がなかった。 だから、ふたりは結婚しないと思っていた。 私が結婚したと幼馴染に連絡すると 「あんたが結婚するとは思ってなかった。ビックリ!」と 大げさに驚かれた。 でも、私たちはそれぞれの生活パターンでずっと生活している。 それぞれが好きなことをして、あれこれ干渉しない。 だから、続いているのかなあと思う。 お互い、好きなことを好きなようにしているから、 別に「分かれる」必要もないからだ。 ただ、それぞれの生活
久しぶりの投稿。まずは、言い訳から(笑)。 新しい仕事が決まって、少しずつ生活の軌道修正を行っていた。 私のつれあいは夜の仕事なので、いつも帰りが遅い。 私ももともと徹夜仕事をするような生活パターンだったので、 どうしても夜型の生活となる。 しかし、最近の私は夜中に目覚めたり、 早朝に起き出すことが増えていた。 さて、新しい仕事は専門学校での日本語指導である。 午後のクラスと、午前8:30からのクラスもある。 これがこの仕事の一番大変なところ。 毎日朝から働いているみなさん
3月末で5年半勤めた会社を退職したので、 またもや新しい日常生活のデザインをしなければならなくなった。 この5年の間にはコロナ禍があり、 個人ではどうにもならない制約を数多く経験した。 おかげで私のものの見方/見え方が変化したと感じている。 前前職のときに初めて派遣社員となって働いた。 それまでは雇用について考えることもなく、 正規雇用と非正規雇用の違いもあまり気にせず、 「食べていければいい」、そう思って気楽に働いてきた。 それは私が若かった時代は好景気で、 食うに困るこ
12年ぶりに高尾山に行った。 国際交流協会イベントグループが主催した「高尾山に登ろう‼」。 集まったのは14人で、半数は外国籍の人たちだった。 国籍、文化、年齢、職業、性別、生活習慣、趣味、嗜好、考え方…… 多種多様の、ほとんど知らない同士だったけれど、 一緒に坂道を登り、森林浴を浴び、広がる風景を眺め、 日本語、英語、ヒンディー語、中国語など、 言葉も話題もあちらこちらに飛び交い、 わいわいがやがや、汗をかきかき山を登った。 年齢や体力も違うので、もちろん歩くペースもちが
5月15日、慶應義塾大学日吉キャンパスへ笠井叡の舞踏公演を見に行った 新入生歓迎行事だったんだけど、半数以上が高齢者だった(と思われる) 笠井叡氏は見事なパフォーマンスをされた とても80歳を超えていらっしゃるとは思えないほどの美しい身のこなし 豊かな感性、心の叫び、平和への願い、それを分かち合うエネルギー 心が洗われ、幸せな心持ちになれた でも、世界で戦争が続いている それを見ないふりしていていいはずがない みな、自分のことで精いっぱい でも、心を向ける機会があるのなら