人生がマイボールになっているか/くどうれいん『氷柱の声』
盛岡在住の歌人・作家のくどうれいんさんの初小説『氷柱の声』を先週末に読み終えた。何か感想を書こうと思いつつ、まとまらないままに1週間が過ぎてしまった。読了後の余韻が去らないうちに、まとまらないなりに何か残しておきたい。読書感想文というよりは、この本を読んで自分の中からあふれ出してきたことを、備忘のために記録しておく。
東日本大震災後の10年間
物語は東日本大震災の直後から始まる。主人公は、岩手県内陸の盛岡に暮らす高校生の伊智花。『氷柱の声』は岩手県出身の伊智花の視点から、震災後の10年間を見つめた小説だ。
しかしこれは沿岸部の被災地そのものを描いた物語ではない。被災県の住人だが内陸部にいたため「何も失っていない人」や、震災で家族を失ったために他者から「物語を背負わされてしまった人」など、これまでなかなか本音を語りにくかった人々の生き方や息遣い、自分の内側に仕舞いこんでいた思い。主人公は岩手、宮城、福島それぞれの出身者や在住者と関わりながら、彼ら彼女らの「震災後」に触れていく。
直接的には何も失っていないとしても、多くの人に「言うほどではないけど」と心に秘めてきた思いがある。何かを失ってしまった人も、他者から背負わされた物語への葛藤がある。震災からある程度の時間が経ったからこそ、そして小説の形だからこそ、言葉にできたことではないかと思う。
作品内で描かれるのは東日本大震災後の10年間。だから、現在進行形で進むコロナ禍も、この物語は射程に捉えている。世界中が新型コロナウイルスの被害を受け、私たちはみな等しく「コロナ禍後の人生」を生きることになった。
震災から10年が経って、自らの内側に凍らせていたことを少しずつ声にだせるようになったかと思ったら、私たちは今度は世界規模の災厄に直面している。「言うほどではないけど」という口に出せない思いを抱えた人たちが、いま世界中にたくさんいるはずだ。どんな人生も生活も、震災後のものとして、そしてコロナ禍後のものとして続いていく。
『氷柱の声』の登場人物たちのエピソードはどれも印象的だが、個人的に最も強い印象が残っているのは、福島出身の医学部生・トーミ。震災発生時に福島にいたトーミは、津波で家や家族を失わなかったことにある種の後ろめたさを感じ、「何も失わなかった自分はせめて人を救う職に就きたい」と医師を志す。
高校卒業後に仙台の大学に進学したトーミは、勉強の傍ら被災地ボランティアに通いながらも、「美しい努力」を続ける自分自身にどこか違和感をおぼえ続ける。そしてある出来事をきかっけに、人生を自分の手に取り戻すべく大きな決心をする。物語後半での再登場シーンも含めて、最も共感できた登場人物だった。
自分の10年間
ここから先は長い蛇足。震災が発生した時、私は故郷の隣県に暮らす大学3年生だった。就職活動の真っ最中で、Uターンする気はほとんどなく、首都圏の企業ばかりにエントリーしていた。後に新卒で就職することになる故郷の会社にも形ばかりのエントリーはしていたものの、完全に記念受験のつもりだった。
しかし沿岸部の被害の大きさが明らかになるにつれ、どうにも東北を去りがたくなってしまった。結局は方針を180度転換して、故郷かその隣県に残れる会社、できれば復興に役立てそうな会社を優先して受験した。内定が出た後の夏休みは半分以上、沿岸部での長期ボランティアに費やした。
当時の自分なりに真剣な決断であり、活動だったのは間違いない。とはいえ被災県にいながら「何も失っていない後ろめたさ」が、進路選択に全く影響していなかったかといえば、多少なり影響はあったかもしれない。「何もなりたいものがなかった自分に、震災という大きな物語が覆いかぶさってきて、自分がそこに上手にはまっただけなのではないかと」というトーミの悩みは、身に沁みて理解できる。
就職後は沿岸でも勤務した。その期間には、沿岸自治体の内陸部に暮らす方から「何も失っていない後ろめたさ」を聞くことが度々あった。そのたびに「そんな罪悪感を感じる必要はあるのだろうか」と思うこともあったが、自分自身を省みれば何も言えなかった。『氷柱の声』を読みながら、もう忘れたと思っていた、震災後の情景の断片がいくつもよみがえってきた。
沿岸勤務を終え内陸に戻ってからは、常に身の振り方を考えていたように思う。新卒入社時、震災10年目までは同じ会社で働こうと決めていた。「復興を見届けたい」との思いからだったはずだが、いま振り返ると、自分の人生を震災という大きな物語に預けていたと言えなくもない。トーミの言葉を借りれば、人生がマイボールになっていなかった。
結果として、私は10年目を待たずに故郷を離れることになった。いろいろあったが、いまは人生がマイボールになっていると言える。仲間と関わりながら楽しくやれていて、より楽しく充実させていきたいという前向きな気持ちがある。
故郷との距離感
いま故郷からは離れたものの、同郷の仲間とともに、東京にいながら故郷とつながる活動ができている。いちど故郷を離れたことで、自分にとって程よい故郷との距離感がつかめた気がしている。
先週末に『氷柱の声』を読み始める直前、同郷の仲間たちとの集まりで「故郷との距離感」が話題になった。みんな故郷への想いは持ちつつも、「絶対帰りたい」でも「絶対帰らない」でもない、もう少し緩やかな感覚を持っているようだった。これは私も同じ感覚を共有している。
これから先、故郷に戻る日がくるかどうかはわからない。1年後、5年後、10年後にUターンしたくなるかもしれないし、定年後に帰りたくなるかもしれない。あるいはずっと帰らないかもしれないし、故郷ではない、もっと別の場所に移住する可能性もある。未来のことはわからない。しかしそれはそれとして、どこに暮らしていようとも故郷はかけがえのないものだ、ということが故郷を離れて実感できた。
『氷柱の声』を読めてよかった。ふだん自分から人に本を勧めることは少ないが、この本は「ぜひ読んでほしい人」が何人も浮かぶ。そしてその人たちに、この本を読んで何を思ったのか聞いてみたい。あの日からの10年間をどう過ごしてきたかによって、そしていまどんな人生を生きているかによって、多様な、でもその人らしい話が聞けそうな気がしている。
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