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失恋って贅沢だ。
押すかどうか迷っていた送信ボタン。その隣には1週間ほど寝かせた長文のメッセージ。
勢いに任せて押してしまって、それを隠すようにしてスマホをポケットに突っ込んだ。
気づけばもう、29歳。
父親が母親と結婚した歳。
そういえば、小学校の頃の僕は29歳の頃の自分をどう思い描いてたっけ。
当時の無垢な妄想が、僕の心を悪意もなくえぐる。
「大丈夫、女は星の数ほどいるんだから。」
昔、友人が僕にそう言った。
たしかに女性は星の数ほどいる。異論は全くない。当時はそう思ったし、この考えは今でも変わらない。
渋谷から横浜の家までの電車の中。僕はいつものようにスマホを開き、いつものようにアプリを開く。
スマホの中の、8118人という数字。
その下には満面の笑顔を浮かべる女性の写真が、「よろしくお願いします!」という一言と共にずらりと並んでいる。
たしかに女性は星の数ほどいる。この考えは今でも変わらない。
新卒2年目の24歳の時。
僕は失恋をした。
相手は、職場の同僚。
最初は可愛いな、ぐらいに思っていたが、なんとなく目で追う内に気づけば好きで好きでたまらなくなっていた。
彼女とは、毎月ご飯に行くぐらいには仲が良くなった。
最近忙しすぎてもう頭回んないよー、なんて笑いながらビールを美味しそうに飲む彼女を見て、思わず可愛いなって思って、にやける。
彼女と付き合えたらきっと幸せなんだろうな。
そんなことを思っていたけれど、その願いはあっけなく消えた。
彼女が会社の先輩と付き合ってるらしい。
どこにでもあるような、よく聞く噂。そんな噂が当たり前のように広がって、当たり前のように僕の耳にも入って、やがてそれは、ごく自然なことのように事実へと変わっていた。
僕にとってこの出来事は、きっと死ぬまで頭から消すことはできないんだろうな、なんて思うけれど、きっと彼女の頭の中にはたった数秒も残らない。僕から見た彼女は、好きで好きで堪らなかった失恋相手だけれど、彼女から見た僕はただの同僚なのだから。
24歳の失恋から29歳の今日まで、恋人はできていない。というか、好きな人さえもいない。
人を好きになれない。
その理由がなぜかはわからない。
今となってしまっては、当時の失恋もいい思い出だ。特に未練もなければ、思い出すようなこともない。引きずっている訳では決してない。
そのはずであるのに。
僕は人のことを好きになれなくなってしまった。好き、という感情がなんなのかがわからなくなってしまった。
29歳の誕生日。危機感と焦燥感が、僕にマッチングアプリを入れさせた。
渋谷から横浜の家までの電車の中。たくさんの女性の顔写真を見ていいねを送るのが、その日からの僕の日課だ。
そんな中、マッチングアプリではじめていいなって思う人に出会った。
初めましてのメッセージから、直感的にフィーリングが合うと感じた。きっと相手も感じていたと思う。それぐらいには意気投合していた。
ようやく人のことを好きになれるかも。
そう思うのは、至極当然のことだった。
1回目のデートはみなとみらいを散歩した。1回目だから、と最初は夕方には解散する予定だったのだけれど、結局盛り上がってしまって終電ギリギリまで遊んだ。きのこ帝国が好きという共通の趣味が見つかって、カラオケで二人で一緒に肩を寄せ合って歌った。駅までの帰り道、二人で寒いねなんていいながら手を繋いで、小走りで駅に向かった。
2回目のデートもすんなり決まった。2人で車を借りて、湘南の海沿いを走った。江ノ島でしらすコロッケを買って2人で半分こにした。途中で道を間違えて、車を返す時間に間に合わなくなりそうになるハプニングもあったが、それすらも笑い飛ばせるぐらいには楽しかった。
1回目のデートも、2回目のデートも、僕にとってはとても楽しく、この先もきっと、ふとたまに思い出すような、そんなデートだったなと今でも思う。
ただ。
ただ、彼女のことを好きなのかどうかは、会うたびにわからなくなっていった。
彼女はとても魅力的な女性だった。明るくて、愛嬌があって、可愛くて。デート中も楽しそうに僕の話を聞いてくれて、どんな些細なことも、それがハプニングであったとしても、思いっきり笑って楽しんでくれた。僕にはもったいないぐらいに素敵な女性だった。理屈ではそう分かってるのに、どうしても感情が追いついてこない。
きっと好きになれるだろう。そう思っていた。
もっとデートを重ねれば、きっと好きになれるだろう。そう信じていた。
3回目、4回目とデートを重ねた。
しかし、好きになれなかった。
彼女と会うたびに、好きという感情がわからなくなった。
彼女と会うたびに、彼女の僕への好意が強まるのを感じて、それがとても苦しかった。
僕は、好きという感情がわからなくなって、代わりに情だけが僕の心に蓄積して、それがやがて罪悪感となって、胸を締め付ける。
好きになりたいのに、好きになれない。彼女のことを好きだと思うと、心のどこかでザラついた違和感を感じる。嘘をついている気分になる。
これ以上はもう、耐えられなかった。
これ以上、彼女の僕への好意が強まるのが。
これ以上、彼女への情だけが募るのが。
これ以上、彼女のことを好きになれないという罪悪感が彼女との楽しかった思い出までもを辛いものに変えてしまうことが。
「大丈夫、女は星の数ほどいるんだから。」
昔、友人が僕にそう言った。
たしかに女性は星の数ほどいる。異論は全くない。当時はそう思ったし、今でもその考えは変わらない。
ただ、自分が好きになる人はどうだろう。
女性は星の数ほどいるのかもしれないが、自分が好きになる人はそのうちの、もしかしたらたったひと握りなのかもしれないなと思う。
今後この先、僕は好きという感情を思い出せるのだろうか。なんとなく、その可能性は限りなく低いような気がしてならない。
もうすぐ僕は30歳の誕生日を迎える。
小学生の頃に思い描いていた30歳の自分は、結婚して子供が二人いたような気がする。
今となってみては、全く現実味を帯びないこの妄想が、いつか実現する日は来るのだろうか。
今日も限りなく低くもわずかに残る期待を頼りに、忘れ去られてしまった好きという感情を模索する。
失恋って贅沢だ。