弟が芸人の夢を諦めた。
僕には19歳の弟がいる。
今年の春、突然「芸人になる。」と言って横浜にある5畳ワンルームの僕の家に転がり込んできた。
北海道の一番賢い高校に通っていたにも関わらず、弟は高卒で芸人を目指すことを決めたみたいだった。
弟はいわゆる今時のティックトッカーで、フォロワーは6万人いた。兄バカかもしれないが、弟が作るネタはセンスがあると思っていた。
僕の家は男二人が住むには狭すぎたが、人一人が寝れる程度のロフトがあった。だから、弟との突如始まった共同生活は、大して不便は感じなかった。
4月に転がり込んできてから今日までの約5ヶ月間、大した会話はしなかった。
会話をするとしても、1ヶ月に数回程度。弟が最近ハマっている格安レシピを教えてくれたり、僕が近所の美味い中華料理屋を教えたり、弟の最新のTikTokの投稿に対して僕の感想を伝えたり。そんな程度の会話だけ。男二人暮らしの会話なんて、そんなもんだろう。
(ちなみに弟が教えてくれたタマゴサンドはいまだに毎朝食べているぐらいには活気的なアイデアだった。)
そしてごくたまに、弟は僕に将来の話をした。
弟はどうやら、真空ジェシカに憧れているみたいだった。
弟は真空ジェシカのような漫才を目指すために、今はピンで漫談の経験を積むべきなんだ、だから俺は、短期的な笑いのためにフリップ芸に逃げたり、陣内みたいな安直なネタに逃げたりは絶対にしない、と僕に熱弁した。
そして弟はまた、定期的にライブの録画を送ってきた。
その送られてきた動画の大半は、兄の僕にとってはどれも面白く、やはりセンスがあるなと思うものばかりだったが、構成が複雑なためか、観客のウケはまずまずだった。
僕は一観客としてのネタの感想を弟に伝え、弟は僕にそのネタの背景を伝える。そんな反省会みたいなことは、月一回の恒例イベントになっていた。
たまに僕は友人から「5畳ワンルームに二人暮らしなんてしんどいでしょ。」なんて言われたりもした。
確かにプライベートのスペースがないことによる不都合はいくつかあった。お互い暗黙の了解で見てみぬふりをする場面は多々あった。
でも、それ以上に僕はこの状況を楽しんでもいたのだと思う。
芸人のタマゴの弟をもつ兄として、なんていうとすごく安っぽく聞こえてしまうかも知れないけれど。
弟が周りに迎合せず自分のおもろいと思う道を歩もうとしていること。つまらない夢じゃなくでかい夢を掲げて突き進んでいること。
もしかしたら僕がやりたくてもできなかったことをやり遂げようとしている弟に、少なからず誇らしさを感じていたのかもしれない。
もしかしたら、周りを見ずに自分の正しさを貫いて、盲目に、バカになっている弟に、少なからず羨ましさを感じていたのかもしれない。
だからこそ、多少の不便はまったくストレスにはならなかったし、むしろ応援したいと心から思っていたのだと思う。
ある晩、僕が仕事から帰ると、弟が言った。
「来年の春、美大を受験することにした。」
来週にはもう荷物まとめて北海道に帰ることにした、と弟は言った。
NSCはオンラインでも受けれるし、お金の面とかも考えると北海道に帰った方がなにかと都合がいいからね、と弟は言った。
美大を受ける理由については「幅を広げたいから。」と答えた。
ネタを作る際に今の知識では限界を感じたらしく、また、芸人は舞台のオーディションしか道がないらしく、売れるための手段は多いに越したことがないから。最悪、芸人がダメだった時でも、美大卒の肩書があれば就職には困らないから。
そんな理由だった。
弟は明確に「芸人の夢を諦める。」とは言ってはいない。むしろ、「芸人の夢を叶える確度を高めるために」美大を受験すると言っていた。
別に弟が決めた選択に、兄であるにしても他人である僕がとやかく言う筋合いはない。
弟が何をしようが自分の人生だから自分の好きなようにやった方がいい。そう心から思っているのは確かだ。
でも、そうであるはずなのに、そうであるに決まっているはずなのに、何かを言おうとして言えないでいる自分がいた。
本当は美大なんか受けずに、そのまま突っ走って欲しかったのかもしれない。でも一方で、芸人として売れるのは氷山の一角であることも理解しているからこそ、その厳しさを知っているからこそ、別の選択肢を持っておくことは合理的な選択であるとも思うし、むしろそうするべきだと推奨している自分もいる。
僕は目の前の弟に対して、なりそうでなりきらなかった言葉を押し殺して、「そうか、わかった。」としか言うことができなかった。
「荷物、思ったより多かったからダンボールキッチンの前に置いといて良い?」
「いいよ。僕の着なくなった服たくさんあげたからだね。ダンボールはいつ送るの?」
「明日。明後日にはもう出発する。鍵はポストに入れとけば良い?」
「うん、そうして。」
「わかった。5ヶ月間ありがとう。」
「うん。」
明日の夜さ、空いてたら中華食べに行こうよ。あの前行ってた美味いところ。最後だし、奢るからさ。
そう言いたかったけれど。
最後まで言葉にできなかった。