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アン・マキャフリー『歌う船』を読み比べたら翻訳って楽しい♩となった

 創元SF文庫より、アン・マキャフリー『歌う船』新訳、完全版が2024年7月に発売されました。
 偶然、とある古書店で別の翻訳者の旧版を見つけ、完全版の前に読み始めていたのですが、新訳との違いが色々発見できて楽しかったので、備忘録的にまとめ紹介したいと思います。


新訳完全版はこちらです。
アン・マキャフリー 著.嶋田洋一訳. 歌う船. 完全版, 東京創元社, 2024.7, です。

旧版は(手持ちの分は表紙イラストが違う、初版本です)こちらです。
アン・マキャフリー 著.酒匂真理子訳. 歌う船, 東京創元社, 1984.1, (創元推理文庫), (なお「ハネムーン」と「船は還った」は未収録です)

さらに手元にあった中で、「ハネムーン」の旧訳「蜜月旅行」が収録されているのがこちら。(手持ちの分はイラストは写真のものと違い7刷版です)
アン・マキャフリイ 著.浅羽莢子訳. 塔のなかの姫君, 早川書房, 1981.1

とも読み比べました。(「船は還った」のみ旧訳が手持ちになく、比較ができなかったのですが)三名の翻訳家を読み比べたら、けっこう違っていて大変面白かったです。

ここから先は、具体的に面白いなぁと思ったところを書いていく、という趣旨なのでネタバレを含みます。あまり話の筋には触れませんが、それでもネタバレになるので、ネタバレ避けたい方はぜひ、作品を読んでから続きをお読みください。

新旧で印象の違う「歌う船」の第一文

嶋田洋一さんは

その子は”もの”として生まれ、あらゆる新生児が受ける脳造影テストに受からなければ、”もの”として処理されるはずだった。

「船は歌った」アン・マキャフリー 著.嶋田洋一訳. 歌う船. 完全版, 東京創元社, 2024.7,11p

酒匂真理子さんは

この世に生まれ出た彼女は、もの(原文傍点あり)だった。すべての新生児えに義務付けられている脳波計テストに合格しそこなえば、彼女はもの(原文傍点あり)としての運命を宣告されるだろう。

「歌った船」アン・マキャフリー 著.酒匂真理子訳. 歌う船, 東京創元社, 1984.1,8p

 という具合に、雰囲気が全然違って「うぉー、すごい!!」となりました。
新訳はよりヘルヴァの無機質的な部分でものらしさを表現していると思いますし、全体的にキャラクターの役割語も控えめで、そこで「もの」らしさが表現されてるなと思いました。
 個人的には旧訳の「もの」だったことを強調することで少女から恋する乙女へ、という流れがより鮮やかに印象付けられたので旧訳が好きでした。

 Xでも感想をつぶやきましたが、旧版では「嘆いた船」などで見られる「テープ」となっているところが新版「船は悼んだ」では「記録」となっていて、時代に合わせた名訳だと思いました。

 昔のSFって記録媒体といえばテープ(ビデオデッキとかカセットデッキとか)のイメージが強いですが、今ではなじみが薄いですよね。(私はわかる世代ですが)新しい技術に合わせ、訳し方を変えているのはさすがだと思います。

 そういう意味では旧訳の「嘆いた船」に出てくる「物理療法」(p64)も新訳「船は悼んだ」では「運動療法」(p64)に置き換えられていたりして、こういう細やかな配慮がありがたく、読みやすさについては、新訳完全版の方が大きいと感じます。

どんなところで読みやすさを感じたかって言いますと、「殺した船」酒匂訳で

「羊膜を纏ってくるっていうべきじゃないかしら」

「殺した船」アン・マキャフリー 著.酒匂真理子訳. 歌う船, 東京創元社, 1984.1,112p

でなんのこっちゃ?と思ったのですが、新訳を読み直した時に

「羊膜のフードに包まれて生まれる、幸帽児分娩(原作ルビ:こうぼうじぶんべん)というわけね」

「船は殺した」アン・マキャフリー 著.嶋田洋一訳. 歌う船. 完全版, 東京創元社, 2024.7,108p

でなーるほど、とようやく理解できました。完全な余談ですが、歌う船を読んだ後『チェルノブイリの祈り』の5話で「欧州では羊膜をかぶって生まれた赤子は幸運とされる」という注釈があり、なるほどなぁと思いました。(SFではないですが、個人的おすすめです)


はい、話を戻します。
 上に挙げたように、旧訳の「劇的任務」「あざむいた船」で私はちょっと座礁しかけたのですが、新版を読み直すことで解像度が上がると言いますか、分かりにくかったところが補完できるので、旧版しか知らず、わかりにくかったよ、という方にはぜひ新版もおすすめしたい!と思いました。

ここから先は、思いきり個人的好みが炸裂しますが、それでも旧訳でも捨てがたいところがある、と思ったのが浅羽莢子さんの翻訳です。残念ながら新版の「ハネムーン」だけを訳されているのですが……

浅羽莢子訳「蜜月旅行」

 この翻訳で感動したのが3点あります。まず酒匂さんも、嶋田さんも「筋肉」と訳していたところを「腕力」と訳したこと。なんか、頭脳船なので乗組員を筋肉と言うのも面白いのですが、「腕力」と訳されたのが、妙にしっくりきました。英語に詳しく無いので「ナイアル」を「ニール」としたのがどういう意図なのかはわかりませんが、ナイアルよりは、ニールの方が好きでした(最初は愛称だと思っていたのですが、この辺り、多分訳者の好みなんでしょうか???)
 そして、最後はコーヒーの描写です。ここは新版と旧版を比べるとその意味合いが違いがわかると思うので引用します。

 まずは「蜜月旅行」からニール(ナイアル)がヘルヴァが注文した備品について文句を言うシーンです。ナイアル、ヘルヴァと会話しています。

「”強化コーヒー”なんぞ、なんで注文したんだ? うえっ!」(中略)
「あなたが濃縮飲料を欲しくならないとも……」
「あんなまがい(原作傍点)コーヒーはーー」
「まるで無いより、ましでしょ? 第一、食糧の半分はコーヒーなのよ。なぜ誰も彼もあれを飲みたがるのか、知りたいものだわ」

アン・マキャフリイ 著.浅羽莢子訳. 塔のなかの姫君, 早川書房, 1981.1 414p

次に嶋田さんの「ハネムーン」から同じシーンを。

「どうして”濃縮コーヒー”なんだ? くそ!」(中略)
「濃縮した補給品が必要に……」
「あんなくそコーヒーはーー」
「それでもないよりはましでしょ。補給品の半分はコーヒーなんだし。どうしてみんなあれを欲しがるのか、ぜひ知りたいわ」

アン・マキャフリー 著.嶋田洋一訳. 歌う船. 完全版, 東京創元社, 2024.7,368p

 これは完全な個人的好みですが、浅羽さんの「強化コーヒー」という言い方には化学合成された感があり、SFチックでいいなぁと思いました。(濃縮コーヒー自体が実在するからそう思うのかもしれませんが……)
 また、旧訳ではヘルヴァが結構ニール(ナイアル)といちゃいちゃしている感じが伝わってくる感じが語感の端々から伝わってきます。心配性ロッコのセリフにもそれが出ていると感じるので、彼のセリフを最後にもう一つ比較のために、引用してみます。

「きみに病的愛着を持っているからさ。あいつにはブローン・コンプレックスがあるんだ」

アン・マキャフリイ 著.浅羽莢子訳. 塔のなかの姫君, 早川書房, 1981.1 409p

新版のロッコは丁寧語で、やや理性的な印象です。

「彼はあなたに執着してます。”筋肉執着”です」

アン・マキャフリー 著.嶋田洋一訳. 歌う船. 完全版, 東京創元社, 2024.7,p363

とまぁ、原作に忠実なのは新訳なのかなと予測しますが、旧版の「ブローン・コンプレックス」という訳し方も中々面白い。こんな具合に色々と比較してみましたが、それぞれの味わいがあって面白いですよね。

読み比べて感じたこと

 新版も旧版もそれぞれの良さがあったし、好み云々はあっても優劣はつけ難かったです。それぞれの良さがあって、本当に翻訳による味付けって、好みも、大きいんだろうな、と思います。 
 もちろん今回の比較は、原文版と翻訳を比較したわけでもなく、私が英語に堪能ではないため、原文への忠実さや英語的正解がどうかは重視していません。翻訳家の裁量も想像の域を出ないのですが、こうして比べてみるとそれぞれの翻訳家が工夫しているところが見えてきて大変面白かったです。
 言葉を操り、語感を制御して映像を鮮やかに浮かびあがらせる翻訳家の腕は本当に凄い!!というひと言に尽きると思います。
 原作が頭脳船なら翻訳家はまさに「腕力」。両者が合わさり海外SFの、原典の素晴らしさが伝わるので、本当にありがたいなぁ、と思った。

 こうした新版旧版の比較は本当に面白い読書体験でした。また機会があればやってみたいと思います!

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