学ぶかどうか、それだけ。
暮らしているといろんなことがありますが、
なかなかそのいろんなことに気がつかないことってあるなぁと思うんです。また、気がついていたとしてもそのことについてどう捉えることができるかというのが大きな違いにつながっていくんじゃないかと思います。
今回はそんな話です。
まず、全く根拠のないことですが、数字的に考えてみます。
※もう一度言いますが、根拠のない感覚的な話です。
僕らは1日24時間を与えられていますが、十分な睡眠8時間をとると仮定して、目が覚めている時間は、16時間程度です。目が覚めている時間というのは、何かしら情報に触れているわけですから、16時間ほど情報を浴びている状況だとも言えます。
その16時間のうち、新しいものに出会うのはどれくらいでしょう?そして知ってるものに出会うのはどれくらいでしょう?さらに知ってるものだけど、少し違う側面を見つけたなってのはどれくらいでしょう?
新しいものが大体2割。知っているものが残りの8割。
そしてその8割の中の2割程度が違う側面を見つけたなというものだとすると、2:6.4:1.6って感じですかね。
大雑把に「発見」と言えるものは、新・旧・既存・更新を含めて2+1.6=3.6程度はあるってことです。3.6割は何かしらの新しい情報であると考えられます。※実際は違いますよ、感覚的にです。
ではその3.6割には具体的にどんなことがあるかというと、
✅ 新しい店がオープンした
✅ 新しい情報(ニュース)が手に入った
✅ 仕事仲間がいつもと違う働きをした
✅ 今日の日替わり定食は?
✅ 違う車両に乗ったらこんな人がいた
そういう類のものです。情報と意識している、できているものからは何かが学べそうです。しかし、まずここで何かを学んでいるなぁと実感できていることはどれくらいあるでしょう?
今回の記事のポイントはここです。
まず、情報と意識したものであっても学ぶことにつながっていないことが多いということです。学ぶという言葉を使うと、本を読んだり机についたりノートを開いたり・・・・、学校での所作をイメージするかもしれませんが、決してそうではありません。学んだなぁと意識できるか否か・・というのがポイントです。
さらに、情報だと意識をしていないことから、僕らはどれだけ学んでいるかというのも大きな分かれ目だとも思います。
これは視点と言ってしまえばそれまでなんでしょうが、この視点をどれだけもっているかが考えるという力を養うということや気づきと言われるものにつながるのではないかと思います。
これは、一朝一夕にできるものでもないですし、こんな記事を書いている僕ですが、できていないことは多いなと自戒をしてる始末です。
結局、学ぶかどうか、それだけなんです。
1日をなんとなく過ごしても1日です。それもそれで正解でしょうが、生きているなら何かしら成長していきたいじゃないですか。
そうであれば、毎日は学びの宝庫だと思いながらさまざまなものに触れ、さまざまな状況に出くわせば、毎日がスペシャルなわけです。
たとえ、それが理不尽なことであったとしても、「こういうのが理不尽だ」と学ぶこと、そして「どうすれば理不尽じゃない方向に向かえるのか」を考えること、そういう考えを持ってみたいと・・・これ自分に言い聞かせています笑。
もう一度、言いますが
学ぶかどうか、それだけ。
でいろんなことは変わっていくと思います。
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