【偶然日記#5】エピソードがない日は別の日のことを書こう

昨日は友人二人と夕食を共にした。

そのお一人に「雄手さんの話面白いから書いてみたらいいんじゃない?」と言っていただいてから早2,3年。「ついに書きはじめました」と伝えると「いいじゃない!」と肯定してくれた。

ただ「偶然日記」の方は、うまく書けないことを相談してみた。

「今と昔の話を毎日交互に書いてて、昔の方は結構スムーズに書けるんですけど、今の方はなかなか書けないんです。なんかカッコつけちゃうと言うか、書こうと方に力が入っちゃうというか。」

普段から自然体で人柄がすごく伝わる素敵な文章を書いているOさんに、「えー別にいいんじゃない?昔のことはどんどん書けるの?」と聞かれ、「そうなんです。」と答えると、「今のことは自分のなかでまだ消化されてないからかもね。でも書くってこと自体が健康的なことだし、それでいいんじゃない?」と励ましてもらった。

昨夜の夕食トークでは、その他に「再編集」というのがキーワードとして出ていた。

昔の話をするとき、多かれ少なかれ事実を編集している。僕に限らず過去の事実をそっくりそのまま再現することは誰にもできない以上、誰かが話していることが全て本当かどうかはあまり関係がない。事実の再編集によって語られる意味こそ、その人を表すと。

でも、ついそのことを忘れてしまいがちだ。自分の今のただの何でもない時間を、Facebookやインスタで流れるストーリーーもちろん編集されたものーと比較してしまい、今の自分が色褪せて感じてしまったりする。ストーリーでキラキラしている人も、寝てる時にはよだれをたらし、朝はオナラはすることを忘れている。

また、仕事とかでは、ファクト、ファクトとファクトに拘りの強い人も多い。もちろん参考にはなるが、それよりもファクトから飛躍してどう意味を見出すのかが重要だし、その飛躍に論理性は必要でないことはアインシュタインも哲学者のC.S.パースも言っている。しかし、ファクトの刀を振り回す人は鋭く切り込んでくるので、こちらはどんどん発言するのが怖くなってしまう。

ストーリーのキラキラのまやかしに打ち勝つには、喋るのでも書くのでもいいから自分語りをする練習をして、「自分自身もアウトプットするときは編集しているんだ」と自覚することが薬になる。また、ファクト刀の恐怖に打ち勝つには、同じように自分語りをする練習をして、未来を作るのは過去のファクトではなく、語ること、動くことであると実感することで得る自信が大きな武器になる。

最後におまけで言うと、この文脈で写真とエピソードの話になった。写真のおじいちゃんとおじいちゃんが話してくれたエピソードの中のおじいちゃん。写真のおじいちゃんよりも、おじいちゃんが話してくれたエピソードの中のおじいちゃんの方が、僕のおじいちゃん像だ。

事実としてのおじいちゃん→おじいちゃんによって編集されたエピソードの中のおじいちゃん→僕がさらに編集したおじいちゃん像

この三つのおじいちゃんは確実に違っている。特に事実としてのおじいちゃんは僕にとってはあまり関係がない。重要なのは、おじいちゃんの僕への語りによって繋がれたおじいちゃんと僕の時間。

改めて、もともと語り好きな僕だが、遠慮せずにこれからもどんどん語っていこうと思った夜だった。今日は語りたくなるようなことは特になかった一日。でも、本物の人生は無駄なく構成された脚本とは違う。「そりゃエピソードにならない日だって当然あるよな」と、肩の力を抜く方法をちょっと覚えた今日だった。(7/12 再編集)

こんにちは