感想文:政治神学(2)
前回の政治神学(1)に続けて、第2回目をやっていこうと思います。
今回は第3章からです。
現代国家理論の重要概念は、すべて世俗化された神学概念である。
この導入箇所は、保守思想の父エドマンド・バーグのような「近代左翼の人間観に対する懐疑的な態度」と非常に近いものを感じる。「理性に間違いはない」と信じ、理性と合致した社会設計さえ行えば、理想社会が実現できるといった思想に基づいて、法や国家は発展した。そして、これらは時に「発展」の名を、時に「革新」の名を冠した。もっと、単純な言葉で述べれば、反進歩主義とも呼べる。
余談になるが、日本では古来から革新とほぼ同意義語として用いられていたのは、「改新」である。飛鳥時代に改新の詔が発せられた。この後、日本は中央集権的な体制に整っていく。
本題に戻ろう。これらの一般的に「進歩主義」的概念は「革新」の範疇に永続的に存在するわけでない。この「進歩主義」と「革新」の関係性を正確に記述するとすれば、「革新性」とは「新たに改めていくこと」を意味し、理性主義は封建制と唯神論が中心を占めた社会であった市民革命以前においては新たな社会をルールを作ろうとした「革新」の範疇にいたが、もはや、それそのものがルールになった現在では、この「革新」にはない。こういった理性主義的社会設計を、元々は「革新」にあった「進歩主義」を否定していく立場になったカール・シュミット。擁護するわけではないが、革新でない未熟な進歩主義を批判して、革新を目指すが故にオルタナティブな選択肢として悪魔的「革新」集団ナチスの陣営へ組したのではないかと考えてる。
「有機的国家論」と「集合的人格」への注目が3章後半を占めている。当初は有神論や国王体制の論述が展開されていたため、散漫的な小さな問題提起の波が続くのかと退屈していた。この予想は大きく裏切られた。あくまで、カール・シュミットは「決定権」についての問題提起だったのだ。彼の核心とは、進歩主義批判、様々な組織から構成に至るまでの批判でもなく、「決定権」なのではないかとかつて感じた躍動が、蘇ろうとしている。
ラーバントおよびイェリネクの国家論の主権概念および唯一の「国家支配権力」論は、「神秘的創作」により、生じた支配専有を認め、国家を抽象的な擬似団体、「特異な個物」に仕立てあげるものである。
この文章そのものは、「私って変わってるよね」みたいな拗らせ自意識とその変わってるアピールで差別化を図ろうとしている自意識を肯定する為の裏付けをしていくみたいなものだ。
このあと、有機的国家論はシュタイン、シェルツェ、ギールケおよびプロイスによって発されるが、「はいはいワロス」と周囲から流されたり批判されたりしようとしていたとシュミットは言う。「集合的人格?、集合所有?(シュトべ所説)、キリスト教の三位一体の方がまだ簡単やで。マジで意味わかんね」と切り捨てられたと書かれた1ページは、歴史解説書のそれと同じレベルのものだと捉えていた。その後も、マルクスの経済学的側面からの国家分析や心理学側面の記述が続く。そして、急激な登頂になっていく。
民衆の意志は、つねに善である。「人民はつねに善者である。」、「いかように国民が欲しようとも、国民が欲するというだけで十分だ。その形は、すべて善であり、その意志は、つねに至高の法である」(シェイエス)。しかし、民衆が、つねに正しいことを欲するという必然性は、人格的主権者の命令を特徴づけていた正当性とは別物である。絶対君主政は、相争う利害や同盟による戦いに裁定をくだし、これによって、国家としての統一の基盤をなしてきた。国民によって表される統一には、この決定主義的性格がない。これは有機的統一であり、国民的意識にともなって、有機的な国家総体の表象が生まれる。
有機的統一体である国民は、国家の決定者である。前時代的な有神論の超越的表象が消えたあと、ホッブズに「真理ではなくして、権威こそが法をつくる」と言わしめた現代の理性的社会設計は、一つの意志に集約される複数の意志を持った個体とその結合を権威として祀ることに全てをかけていく。ここには皮肉がたっぷり塗りこまれているように感じざるを得ない。
これらの「先進的」であるとか「解放的」であるとか、そういった言葉に包括された戦後民主主義は欺瞞を抱えた。マルクス主義者が中心となった左翼論壇から、天皇主義や国家主義を中心にした右翼論壇からも痛烈に批判されてきた。そして、その先進性を否定する行為は、もっぱら微細な議論や結果よりも行為そのものが大きな影響力を持った。
例えば、東大安田講堂事件は国家運営における官吏を養成する東京大学を占拠し入試をさせなかったことに、また、三島由紀夫も賞賛した踏ん反り返った大学教員を暴力によってねじ伏せたことに意味があった。つまるところ、解放された戦後日本は何も先進的ではなかった。有機的統一体は東京大学なくして成立しないし、育ちの良い人文学を嗜むエリート階級がのさばり散らしていたのであり、良くも悪くも「自由で平等な世界線」という謳い文句と現実が乖離していた。というより、乖離するものであるのだ。
次回は4章から始めます。