小説 消えた鍵と少年の涙 #シロクマ文芸部
「消えた鍵? そんな馬鹿な」
サンポール美術館のキュレーター、ショウは鼻で笑った。鍵が消えるなんてことがあるわけがない。なぜなら、その鍵は、400年も前に描かれたものだからだ。
サンポール美術館の5つある展示室の中で最も小ぶりなルーム3は、そっけない平らな壁だけで構成されたほかの展示室と違って、居心地がいい居間のようにしつらえられている。
床には暖かい色調のカーペット。照明を抑えた室内にロココ調のソファが置かれ、正面には暖炉がある。その上の壁は深いグリーンに塗られており、たった一つだけ小ぶりな額がかかっている。
「鍵を持つ少年」。17世紀のオランダで描かれたとみられる油彩画だが、作者は不明だ。
この時代のオランダでは、室内に飾りやすい風俗画が好まれた。フェルメールやハルスといった巨匠が活躍した時代だ。そんな中、作者不明でサイズも小さいこの絵がなぜ、美術館で特別な個室を与えられているのか。
そのわけは、絵を見れば誰もが自然に理解する。
やや右向きに視線を流し、優雅なしぐさで右手を差し出す少年がバストアップで描かれている。やわらかな栗色の巻き毛が白い額にほのかな影を落とす。バラ色の頬と少しだけ上を向いた鼻は、少年のみずみずしい勇気と生気、こぼれんばかりの愛嬌を存分に表し、ほんの少し開いた赤い唇からは今にも言葉がこぼれそうだ。
何より、見る人の視線を釘づけにして離さないのは、深く澄んだ青い瞳だ。謎を解き明かす驚きと期待に満ちているようにも、憧れにうるんでいるようにもみえ、なまめかしささえ感じる輝き。誰もが心を奪われ、言葉を失わざるを得ない、圧倒的な美しさが、そこにはあった。
この奇跡的な美少年が差し出す右手につままれているのが、絵のタイトルのもとでもある黄金の鍵だ。小ぶりだが、細かな唐草模様の細工が施され、よく見ると模様の中に文字が刻まれている。「Amor caecus」ーー「恋は盲目」というラテン語だ。
一目見れば誰もがため息をつかずにいられない美少年は、たとえ作者が不明でも、小品でも、美術館で一番の人気を誇る。サンポール美術館に収まったのは10年前で、先代館長がオークションで一目ぼれして落札した。美術館に収蔵するため、ショウが詳しく鑑定した。
「この少年に、大作と並んで居心地の悪い思いをさせたくない」。館長の鶴の一声で、少年だけのための個室として、ルーム3が設けられた。
その絵の中の鍵が消えたのだという。
発見した学芸員のミカは、どう説明しても要領を得なくなるので、とにかくまずはショウをルーム3に連れていくことにした。ルーム2の先の狭い入り口をくぐり、美少年のためだけにしつらえられた居心地がいい居間に2人が足を踏み入れると……
いつものように、暖炉の上で、少年は静かに青く澄んだ瞳を見開いていた。
だが、差し出した右手の指先には、何もない。あるべき黄金の小さな鍵が、どこにもなかった。
「ーーそんな馬鹿な」
ショウは両手で顔をこすり、もう一度、額の中に目を凝らした。白く輝く右手の指先は、血が通ったバラ色に染まっている。背後は黒に近い濃茶に塗り込められ、肌の白さと鍵の黄金がひときわ輝いて見える……はずだった。しかし、そこには、何度見ても、黄金の鍵がない。
美少年の額は緊急に壁から外され、バックヤードの修復室に持ち込まれた。ショウが確かめなければならないことは2つある。
まず、悪質ないたずらで、鍵の上から背景と同色の塗料が塗られて絵が改変されていないか。
次に、絵そのものがすり替えられ、贋作に置き換わっていないかだ。
綿棒にアルコールをしみこませ、ほんの少し、鍵があるはずの部分を撫でてみる。鍵の上に新たに絵の具が足されたのであれば、まだ乾ききっていない絵の具が綿棒につくはずだ。しかし、綿棒は真っ白なままだった。
エックス線など様々な検査を経ても、鍵の気配はどこにもない。
絵は確かに17世紀のオランダ絵画で、わずかな絵の具の剥落やひび割れもショウの記憶どおりの正確な位置にある。贋作にすりかえられた可能性も消えた。
ショウは両手で顔を覆って椅子に沈み込み、長く深いため息をついた。
真作の「鍵を持つ少年」の小ぶりな額の中の画面から、黄金の鍵だけが影も形もなく消えている。もはや疑いようがなかった。
もちろん、この状態では「鍵を持つ少年」は展示できない。ルーム3に別の絵を掛けることも選択肢だったが、館長が拒否した。主を失ったルーム3の入り口はパネルで閉ざされ、最初から何もなかったかのようにルーム2からルーム4へと順路の動線が引かれた。
「暖炉の上の少年は展示していないのですか?」
ルーム3の閉鎖から1週間ほど後の昼下がり、杖を突いた老婦人がミカに尋ねた。濃い紫のベルベットのベレー帽には見覚えがある。月2回、木曜日の午前中に美術館を訪れる近隣の老婦人だ。しかし、今日は火曜日で、正午も回っている。老婦人の顔色が心なしか普段よりも青いように見えたが、ミカはいつものように微笑んで答えた。
「はい、ルーム3の鍵を持つ少年は、現在クリーニングのためバックヤードに下げております」
「そう……困ったわ」
老婦人はさらに青ざめた。ミカは老婦人の手を取り、フロア中央のベンチに座らせ、隣に腰かけた。「クリーニングが終わりましたら展示する予定ですので、ご安心くださいませ」と、老婦人の目を見てほほ笑む。実のところ展示再開のめどはたっていないが、まずは老婦人を安心させた方がよさそうだった。
しかし、老婦人は明らかに取り乱し、両手を頬にあてた。手から離れた杖が倒れそうになり、ミカはあわてて手を伸ばして確保した。
「困ったわ。どうしましょう。絵が見られないと、鍵を開けられないのよ」
老婦人は呟き、ミカの手をとって真剣な顔になった。
「クリーニング中でも構わないから、なんとかバックヤードで見せていただけないかしら。鍵を開けるために、あの絵をどうしても見なければならないの」
判断に困ったミカがショウに報告すると、ショウは急ぎ足でフロアのベンチの老婦人のところへ向かった。「絵の中の鍵がなくなったと思ったら、今度は鍵が開かないだって? 何なんだ、いったい」と、ぶつぶつ呟く。
ショウは老婦人の前にひきつった笑顔でひざまずいた。「鍵を持つ少年をご覧になりたいとのことですね。大変恐れ入りますが、バックヤードにはお客様を原則、ご案内できない決まりでして……ご事情をうかがってもよろしいでしょうか?」と、できるかぎり穏やかな声で問いかける。
老婦人はそわそわと周囲を見回した。フロアにはほかに観客はいない。
ショウがさらに微笑んで促すと、老婦人はようやく口を開いた。
「実は、我が家の所蔵庫を開ける鍵の番号が、あの絵に書いてありますの」
「は?」「え?」ショウとミカの声が重なった。
「鍵を持つ少年」をオークションに出品したのは、老婦人の次男だという。老婦人の夫が10年前に亡くなった際、遺産分割に不満を持った次男が、客間に飾ってあった少年の絵を持ち出し、売りに出してしまったのだった。
老婦人と家を継いだ長男が事の次第を知ったのは、サンポール美術館が絵を落札した後だった。思いのほか高額になったため、買い戻す資金がなく、幸い近所の美術館に常設展示されることがわかったので、必要なときに見に来ればよいということにしたのだという。
亡き夫の一族が代々集めた絵画コレクションの所蔵庫の鍵は、20世紀に特注した20桁ものダイヤル錠で締められており、開錠するための番号は「鍵を持つ少年」の絵を見ればわかるように設定されたのだった。
「番号は、絵の中の少年が持っている鍵に描かれておりますの」と、老婦人は小声で打ち明けた。
ショウは、声をあげそうになったミカを制し、心を落ち着けるため長く息を吐いた。「あの黄金の鍵、ですか。しかし数字はどこにも描かれていなかったと思いますが」と、つとめて冷静に問いただす。
老婦人はうなずいた。「鍵に書き込まれた唐草模様と文字の位置が暗号になっておりますの」
ミカがひきつった笑顔になった。「そ、そんなに大事なものでしたら、お写真に撮っておかれるとか、模写するとか、それより暗証番号をメモしておかれるなどなさらなかったのでしょうか?」
「それがねえ……」老婦人は片手を頬にあてて首を傾げた。「暗証番号を数字で書き残すのは家訓で禁じられているのよ。唐草模様のどの位置にどの文字が書いてあるか、正確に絵を書き写すのは難しくて……写真は、あなた、家に絵があるのにわざわざ撮影なんてしませんよ。売られてしまった後になって、撮っておけばよかったとは思ったけれど、後の祭り。美術館の中では、ほら、撮影禁止でしょう? だから少年の絵を見に来ては、少しずつ覚えて20桁を暗記するよう頑張っていたのだけれど……年を取ると忘れっぽくて」
深いため息をつく。
「長男の娘、つまり孫娘が難しい病気を長く患っているのだけれど、ようやく手術をして下さるお医者様が見つかったの。なのに、その資金がなくて。亡き夫には本当に申し訳ないけれど、所蔵庫の絵を売るしかないわねと、長男と話し合って、やっと決心を固めたところだったのよ」
老婦人の長い話を聞きながら、ショウは内心、ほっと胸をなでおろしていた。「そういうことでしたら、大丈夫です。鍵の模様は私がバックヤードで模写してきて差し上げますよ」と、にっこり笑う。
「あら、助かるわ」と、老婦人は声を上げた。
「模写するって、鍵の部分は絵から消えてしまったのに、大丈夫なんですか?」
バックヤードの扉を閉めると、ミカはショウに不安げな声で尋ねた。ショウは歩きながら胸を叩いた。
「心配するな。あの絵は隅から隅まで、しっかり頭の中に叩き込んである。見なくたって鍵の模様くらい描けるさ」
「ならいいですけど」。ミカはそう言って修復室の扉を開け、鋭い声を上げた。
「どうした」と、ショウがミカの肩越しに机をのぞき込み、息をのむ。
机の上に平らに置いてある「鍵を持った少年」、その青く澄んだ瞳から、バラ色の頬に向かって、細い筋を引いて水が流れている。
「ばかな」と、ショウは額に飛びついた。綿棒でそっと水をぬぐう。完全に乾いた油絵具が溶け出すことはないが、いったいこの水はどこから垂れたのか。しかも、平面に置いてあるのに、なぜ目から頬に向かって筋を引いているのか。
「まるで涙みたいですね」と、ミカが震える声を出す。
「ばかな」と、ショウは繰り返すしかなかった。
急ごしらえでミリペンで描いた鍵の模写を渡すと、老婦人は歓喜の声を上げ、ショウに抱き着いた。「ありがとうございます! これで所蔵庫が開けられます」
ショウはそっと老婦人を引きはがし、腰をかがめて目を見つめた。「もしよろしければ、私も所蔵庫のコレクションを拝見したいのですが。売却をご予定の作品について、ご助言も差し上げられるかもしれませんし」
老婦人の顔が輝いた。「ええ、もちろん、お願いするわ」
ショウの模写は正確だった。老婦人は指で唐草模様とラテン語の文字をたどって確かめながら、一つ一つダイヤル錠の番号を合わせ、20桁がそろって鍵がカチリと外れると、安堵のため息をついた。
両開きの重い木の扉を開けると、さして広くない収蔵庫の壁いっぱいに、大小さまざまな絵が飾られており、ショウとミカの「おおっ」という声がそろった。
老婦人は所蔵庫に足を踏み入れ、右側の壁の下に向かってかがんだ。
「売却したいのは、この絵なんですよ」と指さし……「あらっ」と鋭い声を上げた。ショウとミカが肩越しにのぞき込む。
それは、小ぶりな少女のバストアップの絵だった。金髪を深い青のターバンでまとめ、やや左に視線を向けている。丸みを帯びた頬はなめらかで、柔らかそうな耳たぶまでほんのり赤らんでいる。薄い眉は柔らかな曲線を描き、その下の瞳はどこまでも青く澄み切って、吸い込まれそうだ。ほのかに開いた赤い唇は、覚えたばかりの恋の喜びをたたえているかのように、しっとりと潤っている。優雅に首を傾け、白い麻のブラウスを身に着けて、両手を胸元で交差させ、何かを抱いている。
美しい少女は、抱いていた。黄金の鍵が刺さった黄金の南京錠を。
そして、柔らかな微笑をたたえているにもかかわらず、両目からピンクの頬に、きらりと光る涙の筋があった。
「これは……この錠前には、鍵なんて刺さっていなかったはずなのに……それに、この……涙、いえ、何なの? これは」。老婦人の声が震える。
ショウが老婦人を押しのけるようにしゃがみ込み、よろめいた老婦人をミカが支えた。ショウの顔が絵に近づく。
「このタッチ……絵の具の古び方、それに額……これは17世紀のオランダ絵画のようだが……似ている」
ショウのつぶやきに、ミカの声がかぶさった。「これ、鍵を持つ少年と同じ画家の作品じゃないでしょうか」
サンポール美術館の修復室に、イーゼルが2つ並んだ。その前に並べられた椅子に座るのは、ミカと老婦人、そして館長だ。
ショウが慎重に、イーゼルに額を立てる。左側に「鍵を持つ少年」、右側には老婦人の所蔵庫から持ってきた少女像を。
少年の手には何もなく、鍵は少女のもつ錠前に刺さっている。そして、少年の目からも少女の目からも、涙のような水の筋がしたたっている。その水がどこに由来するのか、ショウがあらゆる検査をしても、科学的な説明はつかなかった。
「並べてみると、ぴったりですわね」。老婦人がささやく。
館長がうなずいた。「間違いなく、同じ作家の絵ですね」
ショウは、並べたイーゼルの横に立った。「この2枚は、同じ作家が同じ時期に描いたものです。おそらく、2枚は一組の作品として作られたものでしょう。なぜなら少女の絵をクリーニングしたところ、錠前に、少年の鍵と同じ唐草模様と、ラテン語の文章が描いてあることがわかったからです。その文字は、Fortuna caeca。運命は盲目、という意味です。少年の鍵の、恋は盲目、という言葉と並べるとぴったりですね。少年が鍵、少女が錠前で、モチーフも対になります」
「つまり、2人はカップルなのね」。ミカがつぶやいた。
ショウは説明を続けた。「少年が持っているはずの鍵は、なぜか、今は少女の絵の錠前に刺さっています。残念ながら科学的な説明はできませんが、絵の具の材料やタッチから、この鍵は少年のものであると言わざるを得ません」
老婦人は手の中のハンカチを揉みしだいた。「そう……そうなのね。ごめんなさい。私が少女の絵を売るなんて言ったから。あなたたちを引き離してはいけなかったのね」
ショウは首を傾げた。「どういうことですか?」
老婦人は、ハンカチで目元をぬぐった。「この子たちは描かれてからずっと、2人一緒だったのに、馬鹿な次男が少年を売ってしまった。幸い近所の美術館が買ってくれたのでまだよかったけど、今度は私と長男が少女をどこかに売ってしまうことにした。だから、少年は少女が売られてしまわないよう、絵にも所蔵庫にも鍵をかけてしまったのよ。そうでしょう?」
「非科学的ですね。キュレーターとしてはなんともコメントできませんが……」。ショウはため息をついた。
「でも、そうなのよ」。老婦人は杖にすがって立ち上がった。ミカが寄り添って、絵に近づく老婦人を支える。老婦人はいとおしそうに2つの額を撫でた。「ごめんなさい。もうあなたたちを引き離したりしない。売る絵ならほかにもあるわ。あなたたちはずっと一緒にいるのよ」
老婦人は館長を振り返った。「この少女の絵を、美術館に寄贈します。2枚一組で、あの暖炉の上に飾ってあげていただけませんか?」
館長は立ち上がり、老婦人をそっと抱きしめた。目に涙が浮かんでいる。「そうしましょう。2人はあの暖炉の上で、これからずっと一緒ですよ」
「……あっ」。ミカが、絵を見つめて小さな叫びをあげた。ショウはつられて絵をのぞき込み、「まさか!」と、大声を上げた。館長と老婦人が顔をあげる。
「鍵を持つ少年」の右手の先に、何事もなかったかのように、黄金の鍵が描かれていた。少女が胸に抱く黄金の錠前には、黒々とした鍵穴があった。
2人の頬は、今やひときわバラ色が濃くなったように見え、青い瞳は一段と輝きを増したようだ。もはや涙のあとはどこにも見えなかった。
4人は呆然と、幸せそうな少年と少女の絵を見つめた。
サンポール美術館のルーム3は、小さいながら居心地の良い居間のようにしつらえられている。床には暖かな色合いのカーペットが敷かれ、ロココ調のソファが置かれている。正面の壁にはレンガ造りの暖炉があって、その上の深い緑に塗られた壁には、小ぶりの額が2つかけられている。
左側は「鍵を持つ少年」、右側は「錠前を持つ少女」。ともに17世紀オランダの作家の作品とみられるが、作者は不詳。2人の輝く美貌と、何より幸せそのものの柔らかな表情は、絵の前に立つすべての人の心を奪って離さない。
強い愛で結ばれた少年と少女は、これまでも、これからも、ずっと一緒に時を過ごす。いつかオーナーが変わったとしても、きっと離れることはない。
(完)
また長くなってしまいましたね……最後まで読んでくださった方、ありがとうございます!
今回も、小牧幸助さまの #シロクマ文芸部 に参加させていただきました! 楽しかったです。ありがとうございます!
肩の凝らないミステリー風味のお仕事小説、長編ですが完結してます!
夢に向かって頑張る人も、夢なんてない人も、よかったら読んでみていただけるとうれしいです~!
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