啄木と私
石川啄木が好きです。
多分時代に合ってたんでしょうね。
現世の物差しじゃクソ弱音インキャ野郎ですから。
僕はなぜかすごい好きなんです。
あの卑屈で、暗くて、後ろ向きな謳がどうもキュッと心を締め付けるんです。気持ちいいのです。
人は善く生きる為に、前向きな目標や人物像を意識して精進するのが良いはずなのでしょう。
ただ本音は違うのだと。
人の不幸は蜜の味なんて昔から言いますが、人は本来自分より下の人間を見る事で自分の葛藤や欲求を昇華させたいんだと。そう思うのです。
当時はその悲哀が人々の心に響く娯楽となったのでしょう。
ただ今の世じゃ人々の娯楽はとっつきやすいものばかり。
完成した時点から現世にまで語り継がれるような素晴らしい歌集や音楽、芸能、絵画なんて物は、娯楽でありながら愉しむ為にある程度の教養が必要なのです。
愉しむのに勉強が必要とは皮肉なものですね。
流行らせたい。
そもそもは素晴らしい作品です。理解できれば現代人にも響くはず。
現代語訳、なんてものである程度、まあ言ってる事の意味くらいは伝わるはずです。
ただ足りない。
現代人は、リズミカルに「パンケーキ食べたい」と体を動かすサマが好物なのです。
最近の「たのしいもの」の価値はその物事に対しての知識が0でも入っていけるものなのです。
私は石川啄木の名前を現代に再臨させるべくいろいろ案を考えました。
SNSで詩の意味を解説する、
若い女の子を雇って「はたらけど!はたらけど!」と言いながら踊らせる、
「石川啄木」と言う名前で母を背負いながら衆議院選挙に出馬する、
ゲーム実況で時々ぢつと手を見てもらう、
SNSで若い女の子に石川啄木という名前でゲーム実況をしてもらう、
…啄木ブームは目に見えて確実なものでしょう。
しかしです。
その辺を歩いているチャラついた若いのが
「石川啄木ぱねえ」なんて事言い出して、私はホントに心が晴れるのでしょうか。
私は石川啄木という人物の存在を世に知らしめるべく活動し、その祈願が成就した暁に、すやすやと眠ることができるのでしょうか。
私は諦めました。
私が石川啄木という人間を好きなのは心のどこかでそう、啄木ぱねえと思う自分が好きだからなのではと。
みんながよく知らない啄木のことよく理解してる俺ぱねえと。
そう人を見下しているからなのかもしれません。
啄木はぱねえし詩とか読んだ事あるおれぱねえと。
私自身を周りに知らしめたいだけだったのかもしれません。
私は3冊にわたる「啄木蘇生実験」のノートを捨てました。
周りがどうこうじゃない。私が彼を尊敬してる。
それでよかったのです。
赤くゆらゆらと燃える炎を見ながら秋刀魚を炙って食べました。
細いな。今年も秋刀魚は不漁か。地球温暖化も進んでいるんだな。
地球温暖化とかいってニュースとか見てる俺ぱねえ、啄木もぱねえが俺もぱねえ。
1人薄暗い山の奥で、ぢつと手を見ましたとさ。
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