Noteが教えてくれる文章に触れる幸福感
Noteをはじめて本当によかったと以前の記事でも書きましたが、文字に触れることがいかに幸福なことかを感じます。それは行為そのものの面白さもありますが、文字をじっくり読むという時間的余裕があることのありがたさも感じるからです。昨今は動画や短文などの刺激と反射を喚起するメディアが多い中で、じっくりと本を読んだり、まとまった文字が集まっている記事を読むことは、ゆとりのある時間を過ごすことそのもののように思えるからです。
文章っていいですよね。人は情報に踊らされていて、情報を得るための文章はそこら中に落ちていますが、なんの情報もない文章にこそ、深みがあると思っています。ただの日記、別にどこどこのお店がおすすめとか、そんなことは書いてなくてもいいんです。ただ「この人楽しそうだな」とか「幸せそうだな」とか「自分だったらここに行ってこんなことを感じるだろうな」とか、そんなことを考えさせてくれるコンテンツがほしくなったりしませんか。情報をダイレクトに入手するのも味がありますが、明日の自分の選択や行動に薄っすらヒントを与えるような婉曲的な事物に触れていたいと思うことが増えました。
流行っていないアルバムの奥底にあるような曲や、書店で本棚にいつまでも眠っているような本、誰にも読まれていないようなブログ、そんなものをふとした瞬間に見かけて、自分がそれを手に取った瞬間、自分の視点でしか見えないものを手に入れた瞬間のワクワク感がたまらなかったりします。多くの人が注目していない絶景スポットみたいな、そんなイメージでしょうか。
読むことも楽しいですし、書くことも面白いですね。書くことの目的は思考と感情の整理、せっかく思いついたことや考えたことを忘れないようにしておく、ある意味で日記のようなものです。これも言い換えれば「情報」の保存なんでしょうけど、おそらくこの「情報」は、私以外の人にとってはどうでもいいことで、私にとっては重要なものなのです。
毎日の自分の生活や行動を記録にしたいという気持ちが、私を退屈から遠ざけます。普段の通勤でさえも、写真や動画や文章にして、そこで見聞きしたものや考えたことを記録しておきたいという気持ちがあります。だから目の前に見えているものを真剣に、ほどよく緩く観察しています。1分違えば空の色が違うように、駅前商店街の景色も毎日異なるわけですから。
この記事を書いているのも仕事を始める前の時間ですが、義務的な労働とはいえ、隙間時間で何を勉強しようとか、何か面白いトピックはないかなとか、妻が何か発見して連絡してきてくれるのが楽しみだなとか、そんなことを考えながら過ごしています。定時までひたすら耐えるみたいな消化試合にはしたくありませんからね。
今日は何を見て、何を感じて、何を書こうかな。