猫から又貸しされた、人間愛
創作する者に必須の要素と思われる「人間愛」。
これが欠けた作品はとっつきにくく、なかなか見てもらえない(超要約)。
商業イラストレーターの発言と聞いて、納得した。
親しみやすさというか、人なつっこさというか。いわば天然のアイキャッチ。
これがないと、いくら描き手が精魂込めたつもりになっても無駄である。
シャカリキ大車輪で描きあげ肩を怒らせても、他人の目には止まらない。
自分と全然関係ないんだよね、と見る者は素通りしてしまうのである。
絵の中のキャラクターがはっきりと、あなたの方を見つめている! と感じられるほどの強い視線。
目を離しても、「また見てる! こっちを見てる!」と感じるほどの視線の強さ。
そんなふうに錯覚してしまうほど訴えかける能力が作品にあれば、あなたの作品は誰かに届く。
相方の絵に強いアイキャッチが備わったとき、思わす「売れる!」と確信した。
その読みは、少し間違っていた。
精確には「売れる」ではなかった。
他人の目を奪う。惹きつけて、離さない。
そのことが、嫉妬渦巻く修羅の同人空間でどのように働くかまでは、私には読めていなかった。
下らない嫉妬を燃やしているのは、自分ぐらいだろうと思っていた。そう思いたかった。
内面修羅、外界も修羅だということが、骨に染みた。
理想の楽園は、どこにもない。
描いたものをどこに置けばいいかわからない時期が続いたのは、そういうわけだ。
…話が逸れた。
一見は孤独に創作しているようでも、できあがった作品は他者に見られることを前提としているのである。
そうでなかったら、独りで壁に向かって呟いていても同じことだ。
できるだけ伝わりやすく、他人の目にわかりやすく心を砕く行為そのものが、他人の共感という出口を探している。
―人間愛。
この抽象物をそのまま咀嚼しようとしても、クラスターが大きすぎて噛み砕けない。
アゴが外れるじゃないかね、君ぃ。
―人間への興味。
相方が分子を細かくしてくれたので、私の歯でもとりつくことができそうだ。
人間不信の時期が、長かった。
これは、相方も私も同じである。
相方はある時不意に、「人間も、そう悪くないのでは?」と腑に落ちた瞬間があったらしい。
そんな瞬間が自分にあったかどうか、はっきりとは覚えていない。
当時の自分は、風景にしか興味がなかった。
空の色や宝石や建物や花を、見た通りに文章で描写することにハマっていた。
ある時、私は気づいた。
「このままじゃ、誰にも見てもらえない」
自分にしては、ずいぶんマトモな着眼点である。
絵画ならともかく、文章で延々景色だけ描写されても困っちゃうよな。
「でもでもっ、景色を書きたい!」
さあ、どうしたものか。
考えた末、私は一つの活路を見出した。
「人の内面の側から、景色を書けばいいんじゃない!」
どんなに美しい絵画も風景写真も、必ず誰かの目を通している。
観た者の心という、フィルター越しに表現された風景である。
であるなら、キャラクターの内面から景色を描きけばいいではないか。
心情を心象風景として捉えればよい。誰かの心の景色を実際の風景にダブらせれば、軽く二倍は愉しめるってものだ。
きれいに重ねても良いし、ちょっとズラしてムラをつくってもいいのだ。
大発見のはずだったが、小躍りした記憶はない。
人間嫌いだったから、お粗末なキャラクターしか作れなかった。そこで頓挫したものと思われる。
セリフを書けば、不自然かつ不出来だった。
変に自分に近くて気持ち悪いか、遠い憧れすぎて届いていないか、両極端だった。
まさに、どうしようもないの一言。
処置なし!
…キャラクターを作る努力を、やめた気がする。
相方の量産する絵を見ていると、勝手にセリフが聴こえてきた。
許可をもらって、それを絵の余白に書いた。米より小さな文字で。
それを集めてつなげて、お話っぽくした。
鉛筆で、手書きでしか書けなかったので、編集がとてもやりにくかった。
デジタルに移行する時、キーボードを叩く雑音が気になって書けないという意味不明の時期をやり過ごし、今ここにいる。
人間愛は、相方がくれた。
もっとも、相方の人間愛は元々猫からもらったものだそうだ。
では、私は相方から猫をもらった。←違うだろ
猫からもらった人間愛を、月光で作った皿でいったん受け止めた後、陽だまりであたため直している。
そんな遠さで、ものを書いている。
…えつ。私の書ひたものが、他人に見られるかですと?
なあに、誰かに読まれたひと強く望んでゐるうちは、誰にも見られなひのです。
さふいふ、矛盾という名の呪法がかかつてゐるのですよ(笑)。
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