マイノリティーでいたい訳じゃない。
令和になって四年と九ヶ月。
人の価値観は多様性という不確実で曖昧な単語によってかき乱されている。
良いか悪いかなんて話で片付けられる訳もなく好き嫌いの実に感覚的な多数決を無意識にとり、マジョリティーかマイノリティーのどちらにいるかで自分を測り自己のアイデンティティーへの支えとするようなそんな印象がある。
多様性の話がしたい訳では無い。
マジョリティーかマイノリティーか。
どちらかに属していないと自分が否定されたような気になる、そんな不安定なメンタルの人が非常に多いという印象が今回の本題。
料理を食べる時は食べログの評価を気にして、
音楽を聴く時はランキングを頼りにそこから出されるアルゴリズムに導かれるように出会う。
服を買う時もPinterestで検索してサイズ感や色は流行を追って買う。
政治に置いては顕著な例とも言える…と言いたいが別に人の思想を変えたいとかそんなつもりもないしめんどくさいのでここでは言及はしない。
もう一度言おう。
良いか悪いかなんて話では無い。
私が思うのは、人と違う事の何がそんなに悪い事なのか?という事。私は様々な場面でマイノリティーである事が多い人間であると自覚がある。
衣・食、音楽の好み、好きなカルチャー、考え方、話し方や仕草etc…。それを気にした事もないし特段悪いとも思っていない。人を不快にしないようにという協調性みたいな物は最低限持つようにはしているが、譲れない部分に関しては譲らない。人生100年まで生きるような現代において、悲劇的な貰い事故がない限り、出会いより別れに出会う場面が多くなりそうな今の平均年齢以下の人達が何を気にする必要があるのだろうか?
ドリンクバーから出てくるシロップを炭酸水で伸ばしたような誰もが作れ誰もが同じ味を共有できる、その上で誰も感動も興奮もしない物を何も考えず何も感じずに当たり前のように体に入れ、その行為をした事自体も忘れて変わらぬ日々を過ごす。
それは感覚的な話ではあるが人々のインターネットの使い方に似ているような気もしている。毎日のように流れてくる情報をソースも確かめずあーだこーだと騒ぎ、自分がさも正義の人間かのように息巻いて、その結果コメント欄は多様性の象徴のように有象無象の目も当てられない便所の落書きとなる。
別にこの視点から先の代案や打開論がある訳でもない。スマホを捨てようといってもメリットしか見れず捨てれない人が殆どだし、インターネットの閲覧制限をつけるなんて中国当局と変わらないとかなんの影響力もない貧民が一丁前の国民の主張をかかげるだけだ。
運命づけられたような日本の衰退と無感情と無意識で見切りをつけて捨てていく国民に何を言っても無駄なのかもしれない。
ならば、より積極的にマイノリティーでいる自分を愛す事の方がある種の解決や問題解決の勢力になりうるのではないだろうか?
マイノリティーでいたい訳では無い。
マジョリティーが嫌な訳でもない。
では、何を求めているのか?
そこに本質が見えそうな気がしている。