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<戦時下の一品>戦時生産の末期型飯ごう 良質なアルミの不足が如実に表れる
軍隊で兵士が野外において煮炊きする飯ごう。コメやみそ汁を炊き、配給を受け、雨水をわかすなどする、いわば命をつなぐ装備で、最後まで手離さなかたったというものです。
1898(明治31)年に制定され1932(昭和7)年まで使われた「兵用飯ごう」は2食分4号を炊くことができ、ほぼ同型のものが現在も市販されています。1932年制定の「九二式飯ごう」は飯ごうの本体が外側と内側の二重になっていて、別々に使うと一人で炊飯とみそ汁などの副食をつくることができ、また、一度に4食分8合の炊飯も可能でした。いずれもアルミ板をプレスして作られています。
しかし、1944年ごろからは、粗悪なアルミを鋳型で鋳造した末期型の「飯ごう」が作られるようになります。こちら、収蔵品ですが、元々は付いていた取っ手が無くなった物です。完品は取っ手が付いていす。
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1932年まで使われた兵用飯ごうとほぼ同じ現用の飯ごう(左)と末期型飯ごう。兵用飯ごうは本体に荷物や体に合わせるカーブがありますが、末期型は単純な楕円の断面構造になっています。
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食器や計量に使う中蓋=掛子=が、末期型では省略されています。
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鋳型での鋳造ですので、型から抜きやすい形になっています。このため、外蓋をかぶせると、乗っかっているだけという状態。蓋に厚みがあるのも、少し重くすることで炊飯中の蒸気漏れを抑えようとしたのかもしれません。
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国産のアルミが作られるようになったのは、1934(昭和9)年1月12日のこと。長野県の現・大町市で日本沃度(後の昭和電工)大町工場が操業を開始しました。満州事変で飛行機のアルミ需要が高くなる一方、アルミ地金が高騰したこともあり、軍が政府に国産化を要望してのことでした。材料は勢力圏内で入手できるものを試しましたが品質が悪く、ボーキサイトの輸入で増産に成功します。日中戦争初期には、銅貨を回収して代わりにアルミ貨を発行するほどでした。
ところが、1941(昭和16)年6月、大本営政府懇談会で南方施策促進に関する件を決定し、日中戦争継続のための資源を南方に求める方針の元で7月に南部仏印進駐が行われると、アメリカ、イギリス、オランダは石油を禁輸し、アルミニウムの原料、ボーキサイトもオランダとイギリスが禁輸とします。これに耐えかねた海軍の強い要望もあり、太平洋戦争が始まります。緒戦の勝利で、マレー半島の先端にあるビンタン島から、良質なボーキサイトが1942(昭和17)年4月から日本に運ばれるようになります。
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しかし、石油をはじめとする南方からの資源輸送は船舶の不足で思うようにいかず、国内のストックも減少。飛行機増産に応えるアルミの生産も間に合いません。戦局の悪化で航路が危険となり、船舶の不足とも重なってボーキサイトの輸入は1944(昭和19)年12月でストップします。これを受けて、各家庭でのアルミ貨幣回収が始まるのですが、当然、質は低下します。
そこで、兵器とは異なり、粗悪な材料でも生産できればよいとする飯ごうは、プレスに堪えるような上質なものではなくとも良いということになり、鋳型で鋳造された飯ごうが登場することになったのです。
◇
飯ごうは火にかけるため金属製が求められましたが、食器となると、大小の竹を切って入れ子にしたものが配布されています。こうした装備品の変化は、戦局の転換や産業の実際の力をあらためて示してくれます。資源のない国は輸入航路の維持こそ生命線なのですが、戦争とは軍隊のぶつかり合いとしか考えられない軍隊では、所詮、そんな基本的なことを蔑視し、力を振り分けることができませんでした。しかし、そうした諫言を誰も言えない状況にしたのは誰であったか。ほかならぬ軍部自身ではなかったのか。そんなことを、この末期型飯ごうが語ってくれます。
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