軍事教練必須の戦時下中等学校の運動会で、呼び物は大模擬戦ー日中戦争下の諏訪中学校は「漢口最後の総攻撃」
第一次世界大戦後、近代的な戦争は国を挙げての総力戦となることが自明となりました。少なくとも、戦争はより規模が大きくなっていくとされる中、大日本帝国では、潜在的な国防能力増進のため、各種の学校に現役の陸軍将校を配属させ、学生に基礎的な軍事教練を施す体制が1925(大正14)年の勅令「陸軍現役将校学校配属令」によって固まりました。背景には、宇垣軍縮に伴う将校の就職先という観点と、学内での教育の監視という側面もありました。
長野県内でも、各種中等学校や師範学校などで教練が行われています。卒業アルバムには、教練に使う射的用小銃や空砲の軽機関銃などがそろった「銃器室」や、教練中の様子、実際に軍隊の兵営に出向いて軍隊生活を体験する「兵営宿泊」などが載るのが普通でした。表題写真と下写真はいずれも諏訪中学校(現・諏訪青陵高校=長野県諏訪市)の1936(昭和11)年3月卒業生の記念写真帳より。大砲もそろえた銃器室と、大砲操作の配置に就いた生徒の様子です。大砲はほかでは見たことがなく、手製でないとすれば、やはり製糸で栄えてお金があった諏訪地方ならではの装備でしょう。
そんな日々の軍事教練の成果を生かすのが、運動会に行った「模擬戦」です。生徒は一大イベントと位置付けて力を入れ、地元の住民も楽しみにしていたようです。日中戦争下、1938(昭和13)年4月27日の諏訪中学第44回陸上大運動会における模擬戦「漢口最後の総攻撃」(5年有志)の様子を、同校学友会誌第38号の記述から転載します(実際の漢口の陥落は半年後の10月27日)。
(以下、読みにくい漢字を適宜書き換え、句読点や段落を加えました。「支那」の呼称はそのままにしましたが歴史の記録としてであり、他意はありません)
「異様な名題に興味を持って観衆、今か今かと待つこと、しばし。漢口城死守の令を受けし支那軍は、日本軍撃破を期してトーチカ先方に散兵線をしき、日本軍を要撃せんとす。両軍の斥候ようやく校庭に表れ、戦機ようやく熟す。支那軍のパンパンという銃の音、カタカタカタという軽機(注・軽機関銃)の音に呼応して、日本軍北方入口よりただちに二線疎開して前進して来る。ここに初めて日支両軍の攻防戦開かる。
支那軍意外の頑強さに、日本軍ついに各個前進して逐次進む。両軍相対してうち合う小銃の音、観衆の耳をつんざくことしばし。ふと見ると、日本軍後方より異様な怪物が活動しだしたり。これぞ、日本の世界に誇る清水丘式(注・学校の地名)大タンク、すわこそとかたずをのんで見ておれば、この優秀なる大タンクは日本散兵線を突出し、敵に向かって猛進していく。
やがて両軍の距離接近して日本軍突撃に移らんとするや、支那軍不法にも毒ガスを日本軍に対して放射す。日本軍死傷多く、赤十字の活躍もまた目覚まし。ここにおいて、さすがの日本軍も一時後退することに決し、再度の突撃を期して、涙をのんで後退す。そこでマスクをつけし日本軍、今度こそはと士気大に鼓舞し、再び向かう修羅の道、嗚呼!
神なるか、鬼なるか、いざとなればそこは日本軍の強さ。最前のようにいでし日本軍は、左方トーチカを爆破せんと決死の兵2名を募り、これを敢行せんとす。匍匐前進ようやくトーチカに至りし兵2名の祖国を思い東洋平和を思う尽忠の心、神に通じてか、その生命無事にしてそのトーチカを爆破するを得たり。“バーン”天地も裂けよと火をふいて燃え上がりしそのトーチカの景こそ、誠に壮観の極みなりしか。
トーチカ爆破成功を見し日本軍は欣喜雀躍、今まさに突撃に移らんとす。今まで頑強に抵抗せし支那軍も、ついに城壁内に逃げ込み、その内から日本軍を猛攻す。調子の油に乗って日本軍、漢口城壁もなんのその、再び爆破に成功して、幾丈とも知れぬ高き城壁も、肉をもって肉に代えつつかき上がり、切り倒し、けちらし、ついに支那軍の最後と頼む根拠地漢口を陥落せしむ。
やがて城壁高く翻る大日章旗、煙幕もうもうたる中に、厳かな君が代奏楽。無我の境に入りて見守る大日旗、天地も揺るがす「大日本帝国万歳、天皇陛下万歳」の声。観衆等しく声なく、はるか思いを支那大陸に馳せてまた感慨無量のごとし。後、日支両軍校庭に整列、歩武堂々分列行進、小隊密集教練を行いて、本日最高の興味種目たる「漢口最後の日」は、かくて終末を遂げたり。」(転載終わり)
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日中戦争下の国民の雰囲気を実によく表しており、生徒の軍隊に対するあこがれや畏敬、ヒロイズムが素直に出ているようです。まだ、自分たちが実際に戦場に立たねばならないという切迫感も、そこまで高くはなかったのでしょう。こうした基礎訓練をさせられていたこともあり、入営せず補充兵訓練も受けていない男子にも臨時召集令状が届き、即席の訓練だけで各地に送り出されることとなるのですが。