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かつての軍隊の駐屯地は、地域経済に大きな活気を期待できるものでした。平時であれば…
戦前の長野県松本市には歩兵第五十連隊の兵営があり、1908(明治41)年11月から駐屯を始めました。民間の力が弱く国の施設の誘致が大きな課題だった時代であり、若い兵隊や将校が新たに街の住民として加わるのですから、大きな経済的波及効果が期待できます。駐屯地の誘致活動はこのころ、非常に活発なもので、特に長野県は長野市と松本市でそれぞれ張り合っていただけに、その綱引きは激しかったといいます。
当時の松本市長、小里頼永はこうした駆け引きに強く、地元出身でシベリア横断で有名な参謀本部次長福島安正に働きかけつつ、4万坪の土地の無償提供と55000円の提供という手を打って誘致に成功します。ちなみに、55000円というのは当時の松本市の年間予算の約半分に当たったということです(「信州の西洋館」より)
こちらは、そんな当時の歓迎ぶりを伝える絵葉書です。
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もちろん、民間業者がこのタイミングを逃すわけはありません。こちら、錦絵風で正確さは欠けるものの、50連隊と浅間温泉、松本城という「名所」を組み込んだ華やかな鳥観図です。製作は東京の業者に依頼し、入営の月に合わせて販売しています。
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それに対し、こちらは地元の印刷業者が作った兵営の鳥観図で、売り出し先も書店であり、正確性を求めました。この後増築される建物もありますが、敗戦の日まで、ほぼこの状態を大きく変えてはいませんでした。
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当時の絵皿も入手しました。兵営や松本城を配置して松本市全景の図としています。記念品として売り込んだのでしょう。
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こちら、2枚ともお土産用の絵葉書で、兵営の調理場です。下の写真には、ご飯をまとめて炊くスチームの釜がふたを開けています。これら食事の材料納入だけでも大きな消費拡大になっています。
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こうした絵葉書は、出入りの業者が撮影し、販売していました。兵士が故郷へ送るはがきとしても愛用しています。そして、現在では当時の軍隊の様子を知る貴重な資料にもなっています。下写真のように、纏め売りもありました。
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このほか、将校の制服を仕立てたり、兵士が故郷へ帰る時の記念品を買ったり。また、下写真のように婦人会やさまざまな学校の見学や体験を受け入れていて、これら参加者を街中に引き寄せる場でもあったので、ついでの商用への期待も大きかったでしょう。
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一方、松本市には松本高等学校もあり(こちらも誘致合戦で勝利)、芸者の中では松高派と連隊派がいたとか、さまざまな浮世の話題を紡いでいます。戦争さえなければ。
やがて50連隊は主に中国大陸を戦場として、太平洋戦争のころは満州駐屯となっていましたが、東部50部隊と看板を掲げられた兵営からは、留守部隊の150連隊や、さらに他部隊への補充兵など、多くの若者を送り出していきます。故郷に帰ることかなわず、亡くなられたすべての方に、いまはただ安らかにあれと願い、弔意を示すばかりです。
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![信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/117072980/profile_8583b70d6b5e719da1c658eebcfe486f.jpg?width=600&crop=1:1,smart)