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貴重な1942年の防空演習記録ーニューラルネットワークの色付け写真でどうぞ
長野県上田市の小県蚕業学校(現・上田東高校)の1942(昭和17)年度卒業アルバムを入手しました。通常、記念アルバムは動きの固い記念写真で埋まっていますが、こちらは生徒によるアルバム委員会が撮影したもので、生徒同士の気楽さからか、いずれも生徒の躍動感やリラックスした様子が残されている貴重な写真ばかりでした。
その中で、学内で行った防空演習の写真を選び、ニューラルネットワークによる自動色付けでカラー化し、さらに一部は修正を加えて展示会に出しました。色はもちろんAIによる参考ですが、当時の雰囲気はよく表れていますので、元写真とともにご覧ください。(写真はいずれも転載禁止)
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当時、空襲は段階を踏んでいて、まず危険が高まると警戒警報、ついで実際に空襲が始まると空襲警報が出されました。各地に防空監視所があり、音や目視で判断して、通報しあってカバーしていました。まずは、早く敵を発見することが肝心で、この監視台のようなものも、常設されていた可能性があります。
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次いで、校舎に爆弾が落下したとの想定での消火作業の様子をいくつか。
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上の2枚は消火のためのバケツリレーですが、生徒の人数に比べてバケツの量が圧倒的に不足し、あまり効率がよいとはいえない光景です。また、写真左手に生徒が持っているとみられる「火たたき」が写っています。
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小県蚕業学校は水の便があまりよくない場所だったということで、放水もそう多くはできなかったとみられます。ホースがはねないよう、生徒が押さえている様子が鮮明です。
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続いて、同じ場所で爆弾落下を想定した、一斉の伏せです。展示会に来てくださった方がこの写真を見られ、別の学校で同じころ、やはり同様の訓練をしたと話し「なかなか一息でぴったりと腹這いになるのは難しい」と振り返っておられました。この下の2枚の写真のように、お尻が高いままになってしまうとか。もちろん、指導の教官から怒声が飛んだことでしょう。
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最後に、焼夷弾に濡れむしろをかぶせて消す訓練。濡れむしろを持つ場合は、むしろを踏んで転ばないよう、少し地面から放して持ち、目標に向かって走るというのが基本で、待機中の生徒はその指示をよく守っているのが分かります。ただ、激しく噴き出す炎に近寄るのは目測も大変だったのでしょう。先に投げた生徒の濡れむしろは、少し手前に落ちそうです。後方の教官からは、どんな指示がとんだでしょうか。
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ちなみに、小県蚕業学校は1944(昭和19)年12月9日夜、長野県で唯一の焼夷弾爆撃を受け、約80発が校舎に落下。壁に飛び散った炎が燃えながら落ちてくるといった状態で手の施しようがなく、本館や蚕室など10棟を全焼しています。もし空襲が日中で生徒が奮闘しても、この程度の装備でどこまで対応できたか。夜間空襲で生徒たちがいなかったのは、幸いだったかもしれません。
※WEB上でモノクロ写真をカラー写真のように加工できる、ニューラルネットワークによる自動色付けを試しています。早稲田大学の飯塚里志さま、 シモセラ・エドガーさま、石川博さま、当時の関係各位に熱く御礼いたします。公開方法については、渡邉英徳さまにご示唆をいただきました。ありがとうございました。
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