いったん戦争が始まると、報道機関も自動的に国家に組み込まれていくー例え国民の側を向いていたとしても。
大日本帝国時代の新聞は、誕生してから讒謗率や新聞紙法などで縛られて自由な報道をするのが困難で、さらに戦争ともなると、軍の正式報道以外はできない状況に。それでも、勝ち戦を続けた大日本帝国では、戦争となると新聞社がさまざまな形で軍を盛り立てています。それは、読者につながる誰かが戦地にいること。それを伝えることが各社の伸長につながること。さまざまな思いから、国家の宣伝機関に自然となってしまうのが現実でした。
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まずは、速報や報道内容で他社よりすぐれているとした例を。まあ、満州事変での速報合戦から、報道は戦意高揚ばっかりにしてしまったという反省が必要ですが。
上写真は、長野県の地方紙信濃毎日新聞が、県外から持ち込まれる新聞に比べ、同盟通信社の取材網を通じて長野県内で印刷するから早く情報を届けっれる、としたもの。北支事変は、1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件から上海事変が発生して支那事変となるまでのもの。いかに素早く売り込んだかが分かります。
上写真2枚は、朝日新聞社の1940年ごろの販促チラシです。既に第二次世界大戦が始まっていて、その動向も含め、仏印など新たな火種の地点にも記者を配置して、世界の情報を一手に集めることをアピールしています。
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また、軍隊関連の歌を新聞社が公募したり協賛したりすることが多かったのも特徴です。
上写真は、信濃毎日新聞社が第一次上海事変に出動する長野県松本市の歩兵第50連隊のために歌詞を公募して作ったものです。レコードも作られて凱旋兵を迎えたりしています。
上写真は、長野県諏訪地方を中心にした南信日日新聞社が1940(昭和15)年に作った「松本部隊行進曲」です。長期化する日中戦争下でした。
栃木県の下野新聞社は、宇都宮市に第14師団司令部があったことから、こうした歌としてのでしょう。「特選」とあるので、歌詞の募集をしたのかもしれません。
各地方紙が地方の駐屯部隊を題材にしたのに対し、東京日日新聞・大阪毎日新聞は、日中戦争開戦に合わせて軍歌を募集し、1位が進軍の歌、2位が露営の歌、と決まって9月20日には発表する手際の良さ。レコードのほか、チラシ、絵葉書、しおりなど、さまざまな形で浸透を図っています。特に2位の「露営の歌」は、レコードの裏面になっていましたが、大ヒットする曲となりました。
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前線の様子はどうなっているか、様子を伝える展覧会も、各地で開かれ盛況を博したようです。出征家族の身になれば、それも当然のことだったでしょう。
信濃毎日新聞社は、1937(昭和12)年11月に、長野市の本社講堂で「支那事変大展覧会」を開催。記念絵葉書や当時の紙面から、大変な人出だったことや、上映したニュースフィルムで親族の姿を見つけるといった話題もあったようです。
南信日日新聞社などは、諏訪湖周辺の会場で展覧会を行っています。開いたのは、1938(昭和13)年のことで、ちょうど7年目ごとに1度行う御柱祭の年に合わせて企画したのでしょう。
太平洋戦争中も、こうした展示会は続けられたようで、朝日新聞社が主軸となって、1942(昭和17)年12月8日の太平洋戦争開戦1周年に合わせたイベントを開いたようです。はがきは入手できず残念。
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このほか、日々の報道の理解を高める地図をサービスする例は多かったほか、時局への協力もありました。
こういったものは、販売競争の力になっていました。
上写真は、大政翼賛会が発足し、全国に隣組が整備され、常会が奨励されるようになったことから作ったものでしょう。地味に社名を入れることで、公共的な役割の雰囲気を出したのかもしれません。
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新聞社は、新聞の発行に加えて、販売競争もあり、事業による宣伝もありで、戦争ともなると、全社を動員して活動することになります。全国紙はもちろんですが、特に地方紙にしてみれば、地域の兵隊のことを支える意識のほうが強くなりがちだったのではないでしょうか。戦争がいったん始まってしまえば批判がしにくくなるのはそのあたりにありそうです。戦争に入る前段階でどこまで冷静に踏ん張れるか、がマスコミの最大の勝負所でしょう。