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幕末維新と西南戦争、今に伝える古文書や書類を集めてみましたー歴史が息づく面白さに触れる
思うところあって、幕末や西南戦争関連の資料も集めています。その中で、まずは日本人による初めての民間新聞とされる「中外新聞」ー慶応4年(1868)年2月24日、第1号出版ーから、いくつか話題を拾ってみました。表題写真は中外新聞の第1号から同年3月7日発行の第5号までの合本で、3月にまとめて「再板」されたものです。2024年から見ると156年前の印刷物です。木活字を使い和紙に印刷、1号は本文12ページ、縦約23㎝、横約16㎝の冊子型新聞で、幕臣の柳川春三が創刊しました。
第1号では、発行の理由を書いてあります。開国後、外国新聞を翻訳するものがあらわれるが、それをここで行うのは大変なので、必要な翻訳記事を掲載し、また、世の中の動きも伝えるとしています。
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2月28日出版の第2号では、幕府軍と官軍の間で起こった戦争について、アメリカが局外中立の立場を明らかにして、軍艦や武器の売り渡しを厳禁としたとあります。このため幕府が購入していた装甲艦「ストーンウオール号ー甲鉄」は引き渡されることなく、宙ぶらりんになり、後に正統政府を朝廷側と認め、新政府軍に売り渡されることになります。
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3月13日発行第6号では、勝海舟の命令で近藤勇らが江戸から甲府城の接収を命じられて編成した「甲州鎮撫隊」の顛末が出てきます。現在の書物で出てくる「近藤勇」の名前は、過去の人物ですが、この中外新聞書くところの「近藤勇」は、まさにその同時代の人物で、その動きが報じられているあたり、当時の生の雰囲気が伝わるのが新聞の良さだと思います。内容としては、近藤勇が百余人の兵を連れて行ったが既に甲府城は「敵手=官軍」が入っていて、引いて陣を構えたところ、敵が攻めてきて一度は撃退したが再度の攻撃に大敗したとあります。
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一方、新政府側は、政府の政令を伝えるなどする現在の官報に当たる「太政官日誌」を、やはり慶応4年2月から発行しています。こちら、3月発行(月間というわけではないが、発行日が記載されていない)の第5は本文18ページで大きさは中外新聞と同程度です。この号には、「五箇条の御誓文」と、天皇がこれを神前で誓った式の様子などが載っています。これは当時発行の実物で、これが各地の役所に届き、徹底されていったのです。「五箇条の御誓文」が初めて世に出されたのが、この出版物なのです。
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慶応4年7月発行の太政官日誌第42では、戊辰戦争絡みの記述が目立ちます。そしてこの号では、長野県関連の話題が出ており、戊辰戦争で唯一戦闘のあった飯山城付近(現・飯山市)の様子が出てきます。松代藩は当時、新政府軍によく協力し、長岡藩の戦闘を助けて感状が出た事なども掲載されていました。
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さて、時代は下って明治10年(1877年)、西南戦争が勃発します。当時の新聞はまだ手に入れていませんが、ちょっとした書類を入手しました。
まずこちら、長野県令からの布達書類で、西南戦争中に出していた指示を「賊徒平定」につき廃止し、平常に戻すというもの。西郷軍への武器の売買を禁じたり、鹿児島県への入港を禁止したりするとの布達が出ていたのです。
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そしてこちら、滋賀県権令が区長や戸長に伝えた文書で、西南戦争での戦死者について、11月13日から15日まで、東京九段坂上で招魂祭を行い、そこの招魂社で毎年9月24日に祭典を行うので、関係者に伝えることとの内容。この招魂社が、今の靖国神社です。明治2年(1869年)6月に建立され、戊辰戦争の官軍の犠牲者を祀ったのが始まり。靖国神社と改称するのは明治12年(1879年)のことです。
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歴史をたどるのも、こうした資料が残っていると、より身近になり、そして裏付けをとることの大切さなども実感できます。あらゆる資料を残すことはできなくても、そのおりおりの特徴ある事跡に絡むものを集めておくことで、史実の積み重ねというものへの理解も深まるでしょう。
ちょうどこの記事を執筆した日、アベノマスクのおかげでマスクが値崩れし手作りマスクも広がったという嘘が流れていました。わずか数年前の事でも時系列を無視した暴論が出ることを思えば、歴史を俯瞰するうえで資料や正確な記録の説得性が大切なこと、よくわかると思います。
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