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参拝客・観光客でにぎわう善光寺で、戦争の名残を新たに見つける

 小正月も終わりましたが、長野県長野市の善光寺は、けっこうな人出でにぎわっています。中の人も三が日は避けて、この時期に参拝しており、おみくじを引いてお守りも買っていきます。家族の健康や社会、世界の平安を祈願して。
 ついでに境内やにぎやかな仲見世を散策していたら、思わぬところで戦争の名残に出くわしました。それがこちら。山門そばの立派な手水鉢です。

しっかり大きな屋根に守られて

 この手水鉢の背後に回りますと、奉納の年月日が記入してありましたが、それが「昭和十八年十二月八日」でした。「大東亜戦争三年に〇〇詠」と読める記名入りで、俳句らしきもの(「月影に」はよめるのですが…(´;ω;`))も刻んであり、奉納の発起人の名前もしっかり刻まれています。

1943年12月8日、3回目の太平洋戦争開戦の日に合わせて設置したのでしょう

 「日録 長野県の太平洋戦争」(郷土出版社)で当日の信濃毎日新聞朝刊を見ますと、大詔奉戴日ですので、宣戦詔書が掲載されており、また、連日の虚報となっていたブーゲンビル航空戦の戦果を天皇がほめたたえた記事、そして過去2年間の戦果についての大本営発表が載っていました。

1943年12月8日の長野県の地方紙、信濃毎日新聞1面

 こちら、海軍。米軍の戦艦を18隻撃沈、空母27隻撃沈とか。そして日本の損害で沈没は戦艦1、空母3と、いずれも半分のごまかし数字です。

海軍側発表。被害は小さく戦果は大きく

 こちら、陸軍。既にアッツなどで玉砕戦が続いていたころです。手元に資料がありませんので比較はできませんが、こちらも戦果は大きく、被害は小さくは共通です。そして、いずれにも共通しますが、相手をこれだけやっつけた、その結果、戦争は押しているのか引いているのか、大局的なことは何も伝えていません。

数字は出しても大局は伝えない戦果報道

 そして前後の紙面を見ましたが、手水鉢設置の話は紙面には見当たりませんでした。その一方で、兵器や食料の増産を叫ぶ記事、地域の頑張りの記事が多数掲載されていました。そして、玉砕戦も言葉をもじって「我らは貯蓄へ玉砕」など、戦意高揚に使われていました。これは、後に特攻隊が出撃するようになると、同様に戦意高揚に使われたのと似た構図です。

「玉砕」も戦意高揚の文句に

 ところで、この彫刻も丁寧に作られた覆い屋根に守られた手水鉢の写真の向こう側に、赤い頭巾と前掛けをした六地蔵が見えます。実はこの六地蔵、戦時中の金属供出で姿を消したものが再建されたものです。
 その様子を捕えた写真は以前も紹介させていただきましたが、信濃毎日新聞のカメラマンで、命がけで戦時下の長野市内を撮り続けた川上今朝太郎の写真集「昭和で最も暗かった9年間」に収録されています。

今は平穏な善光寺の境内で
六地蔵の台座だけが残り防空壕も掘られた1944年当時の善光寺境内

 この写真は手水鉢の反対側から撮った写真です。奥を見ますと、確かに手水鉢がしっかりした柱の間に見えます。当時の屋根も、現在のものと同様だったのでしょう。今撮影しても、六地蔵が再建されているので、同じアングルでは、このようには写せないのです。

今のようなふたはありませんが、確かに手水鉢があります

 善光寺には全国の戦没者を慰霊する忠霊殿や特攻隊員の慰霊碑、少し離れた背後の里山にビルマの戦死者を慰霊する塔など、戦時と関係の深い施設がいくつもあります。一方で、今回は思いがけないところに、戦争の痕跡を発見しました。こうしたものは、意外と身近にあるのかもしれません。それ自体がどうというのではなく、歴史を感じ、そこから当時に思いを飛ばすきっかけになるものは、注意してみるとそこここに残っていると思います。
 足元から戦争とのつながりを知ることは、戦争が身近な生活と無縁ではないこと、だからこそ、繰り返さないようにしていかねばならないことを実感させてくれるのではないでしょうか。

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信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
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