長野県は満蒙開拓団、満蒙開拓青少年義勇軍を全国一多く送出しました
長野県では、満州事変が起きて一段落すると、さっそく満州愛国信濃村の建設計画が浮上します。農村恐慌で苦しんでいた農民ら希望者は多かったのですが原資の寄付が集まらず、この時は断念しています。しかし、1936(昭和11)年、二・二六事件で満州移民に反対していた高橋是清蔵相が殺され、この影響による戒厳令が続く中で発足した広田内閣は、関東軍が計画を立てた「満州農業移民百万戸移住計画」を国策とします。
満州国を建国させたのは良いものの、日本人の総人口に占める割合が少ないので、これを増加させて支配層として安定させること、ソ連と対峙する満州の最前線の軍の後ろ盾となることなどが目的でした。しかし、既に日中戦争勃発に伴う徴兵や軍需景気の中で思うように進まない為、1938(昭和13)年から始まったのが15歳から18歳の青年を対象とした「満蒙開拓青少年義勇軍」の送出でした。
長野県は各市町村に募集人数を割り当てるなど、極めて熱心で、また、学校側もこれに応えて協力します。青少年義勇軍を含め27万人ともいわれる開拓団員のうち、長野県がおよそ3万3千人と突出して全国一の人数を出した背景には、盛んだった養蚕業の戦争による衰退、耕地面積の狭さ、飯田下伊那地方に熱心な町村長が多かったこと、さらにブラジル移民などを既に行っていて実績があったことなどがあります。
一方、青少年義勇軍の送出には学校が協力を惜しまなかった理由の一つとして、1933(昭和8)年に教員や労働組合員が多数検挙された二・四事件の影響も考えられます。信濃教育会は事件の後、国策遂行への全面的な協力で汚名を返上しようとした側面があったことは否めません。
こうした複合要因から、3万3千人の開拓団、青少年義勇軍はこのうちの約3割、1万1千人ほどが送り出されていくことになったのです。長野県は、その宣伝冊子の中で、現地で3年間の訓練を追えれば20町歩の地主になれると明記しています。
一応、24,5歳で10町歩の地主となれるとしていますが、このほかに共有地の割り当て分で20町歩を使えるということになるわけです。
満州へ直接行くのではなく、最初は国内の茨城県内原訓練所で基礎訓練を行い、現地訓練所へ行くコースでした。こちら、内原訓練所で配布されたもので、精神的側面が強調されています。
さらに長野県では、先発した独身男性開拓団員や、将来の青少年義勇軍の妻となる女性を育成するため、現・塩尻市の帰郷が原に女子拓務訓練所を儲けます。資料はわずかですが、やはり日中は農作業の基礎、夜間は精神講和、という形でした。自分たちの歌も作り、士気を高めたようです。
これら開拓団は、満州国駐屯の関東軍に対し兵力や食料を供給し、いざという時の後方支援から実際の戦闘要員まで確保する狙いで、特に青少年義勇軍の開拓地はソ連との国境近くに設けられていました。軍主力が防衛のため交代しても、それを悟られないよう、現地の開拓団には何も伝えられませんでした。要塞の大砲まで移動準備に入っていたものもあったのに。
この結果、ソ連軍の参戦で開拓団員は各地で孤立。ソ連軍の暴虐をもろにかぶることになったのが、開拓団や、たまたま支援に入っていた奉仕団といった民間人でした。自力で開拓地を整備した開拓団を除き、中国人から二束三文で買い取った土地で工作していた開拓団は容赦のない襲撃も受けています。
一方で、現地を視察した町村長の中には、既に耕された畑を見てこの危険性に気づき、のらいくらりと開拓団員の送出を引き延ばして、敗戦まで出さなかった例もありましたが、多くは長野県の指導などで、全国初の分村移民を行った大日方村が象徴するように、全国一の送出となり、集団自決などの悲劇も最も多くなってしまいました。そんな歴史を記録するため、長野県阿智村に民間主導で設けられたのが満蒙開拓平和祈念館です。中の人も会員となってささやかに活動を支えています。機会をつくって、ぜひ酔っていただきたい場所です。加害者であり、被害者となって、残留孤児や残留婦人、それに伴う帰国など、さまざまな問題が現在まで続く。その歴史を知っておいてほしいです。