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配給制度は個人単位だけではなく、隣組組織を通じての配給割当(有料)もあったー分け方に苦労がしのばれる
日中戦争当時から始まった生活必需品の配給制度だが、コメなどの主要食糧や砂糖、衣料切符にみられる点数制度など、当初は個人向けに回数券などを提供し、指定の配給所で受け取るという仕組みが主流でした。
一方で、この方法では十分に行き渡らないほど、生産力が低下してきたことや、人員を把握してできるだけ公平に配給する狙いで、1940(昭和15)年末ごろには全国に張り巡らされた隣組組織を通じて配給する方法も次第にとられるようになってきます。こちら、長野県下諏訪町の第3区矢木西町第7隣保班の1944(昭和19)年度台帳を中心に、みていきたいと思います。
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まず、隣保班記録簿の1940(昭和15)年11月2日に開かれた常会取り上げ事項を見ますと、木炭については、自家消費分は自分たちでつくることとされています。共有林があったのでしょう。上限を決めて、各自が作るようにと。冬に備え、配給が滞ることが既に考えられていた可能性があります。それほど心もとないものだったと思えます。
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同じく、こちらは隣保班発足に合わせて作られた配給品帳簿です。これによりますと、隣保班最初の配給は、11月5日の木炭でした。各家庭で作るまでのつなぎに配給はあったようです。家庭の人数に合わせて、分量を調節しています。ただ、配給しきれない家庭があったようで、次の12月20日に11月に未配給だった家庭へ割り当てられています。いずれも有料でした。
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翌年1月10日はマッチの配給(有料)があり、小箱や中箱を1家庭に渡したり、中箱や大箱を2家庭で分けるなど、工夫している様子が見えます。
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こちら、1944(昭和19)年度の配給品台帳。シンプルな配給記録に特化した冊子で、配給割当状況が分かりやすくなっています。
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こちら、酒類の部。だいたい毎月配給があったようで、日本酒は人数割りで分けやすかったようです。4月にはビール7本の配給もあったようで、こちらは1本ずつ、とりあえず分けています。6月の配給で穴埋めされていないので、飲まない家庭は辞退しているようです。配給とはいえ有料ですから。
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こちら、魚類の部です。削り節、昆布、フナなど、重量で人数割当しています。佃煮は1戸200匁の均等割り、ニシンは一人に付き100匁、などと細かく分類しています。一方、分ける程なかったのか、希望が少なかったのか希望者に買ってもらう「個人買」という記載もあります。
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これが肉類の部となると、3月、10月、12月の、わずか3回の配給の記載があるのみです。しかも一戸100匁(375グラム)で9人の世帯とか、ちょっとつらいものがあります。
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野菜の部です。出盛りの時期に多く、こちらも重さで分けています。農家も重量による供出だったため、筋が入って食べられないような大きなキュウリとか大根を出荷してくることもありました。
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果物の部は、夏ミカンは二個ずつなど、配れたようですが、リンゴやナシは「個人買」となっています。必需品とまではいかなしし、切り分けて重さで均等に配給するのに向いていないという理由があったのではないでしょうか。
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肉や魚の隙間を補助するたんぱく源、豆腐の部です。これは小さく切り刻まないで、1丁ずつ分けたようです。通算の数は人数などを考慮したでしょうが、配給に漏れた所は次回にカバーするなど、割り振りを頑張っています。
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こちら、わざわざ「コンニャクの部」と1ページを作ったのに、配給は2月と3月にあっただけで終わりでした。これには裏があり、実は風船爆弾の危急の和紙を張り合わせるため日本中のコンニャク粉やコンニャク芋が供出されたせいでした。実際のところ、1943年末には市場には出回っていないとまで言われていたのですが、かろうじて配給されています。これは、既にコンニャクとして完成していたか、供出を免れて残っていた粉があったか、どちらかでしょう。しかし、もちろん大量ではなかったのでしょう。
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こちらはその他の部。油は1回だけで個人買い。高かったのでしょう。クルミ、ろうそく、下駄、ソース、米ぬかなど。12月には障子紙も。4月29日の「木やり3本」は、諏訪の御柱祭で使う「御幣(おんべ)」のことでしょうか。この年に御柱祭が開かれていました。
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こうした配給制度は、生産と集荷、流通を計画的に行う必要があり、大変な手間がかかったと思われます。特に重量などで分けるのは大変だったでしょう。中には、食用油を各家庭に分散させず、共同で購入してまとめ、やっとお盆の天ぷらを共同で作れたという話も残っています。ないものの中で、いかに工夫するかが求められました。しかし、工夫にも限度があります。こうなるのが戦争だという事実を後世に残してくれた資料に、学んでいきたいものです。
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