「つらい真実 虚構の特攻隊神話」を読むー戦中派で特攻隊に自分も行くのが当然と考えていた筆者がたどり着いたのは、腐敗し官僚化した軍隊の姿でした
帰還を望めない体当たり攻撃。その第一陣の海軍の「敷島隊」「大和隊」が初めて出撃し、大和隊の予備士官久納好爭中尉(法政大出身)が第一号の特攻(戦果無し)をしたのは2024年からみて80年前の10月21日のことでした。その攻撃方法自体は、時として日本を含む各国で他に生還の手段がない状況下、自発的に行われることはありました。しかし、作戦レベルで大量に生還不可能な攻撃方法を実施したのは、太平洋戦争当時の日本だけでした。
筆者の小沢郁郎氏は、まえがきで「六歳で満州事変、一二歳で日中戦争、一六歳で太平洋戦争、二〇歳で敗戦、これが私の前半生である(略)昭和二〇年には海上にあって戦闘の一端にまきこまれていた私は、特攻隊であることを自他に誓っていた」と打ち明けています。特攻隊ー多くの場合、それは飛行機で華々しく散っていく「航空特攻」をイメージされるでしょうし、事実学徒兵や予科練の若者たちが最も多く投入されたのが組織立った航空特攻であったのは確かで、4600人余が各種の特攻で亡くなっています。
小沢氏は、敗戦により世の「死の賛美」は途切れ、特攻隊を含む「多くの死はむだだったのか」という疑問と怒りに襲われ、戦争での死を考えることから再出発しようとしたとしています。特攻隊の中核は、小沢氏の年齢の前後数年の世代が中心でした。そして戦後「特攻隊を志願させた人」たちによる特攻隊の美化がなされるにあたって、実際の姿を見つめることこそ鎮魂とし、作戦効果を検討。そして効果がない作戦をそれでも実行させた組織の問題、戦後、なぜ美化されていったのかを追及していきます。
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第1章・問題への視点では、「特攻隊」は「体当たり以外に効果を上げられぬ機器に人間が乗り込んで行われた」「体当たりが戦術として行われた」という点に着目。そのような機器の開発、戦術としての実行は軍上層部の命令や許可がなければ不能であったとして、体当たりを「させた者」と「した者」があり、両者の関係は軍隊の上下関係にあって「両者を特攻関係者として同列に論ずることはできない」と明確にします。責任の重さはどこにあるか。「させた者」にあるのは明白でしょう。
そして、戦後の賛美論の中核にいたのは「させた者」であり、その論点として「効果があった」「隊員の献身性」ー聖域化にも至るーの2つの視点があると指摘。それらの正当化、論理が妥当かを検証するに至るのです。
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第2章「体当たりの技術」において、小沢氏は、ようやく飛べるといった程度の学徒兵や予科練生の飛行士を複葉機や練習機も含んだおんぼろの機体に乗せて「操縦できれば当たるだろう」という程度の視座で特攻隊に出されたことを明らかにしています。
高度2000mから降下角45度で突入すると海面まで17秒。その間に目標の船は動いていきます。命中直前に方向や角度を変えるのは困難で相手の予測位置を計算して突っ込まねばならず、「心理的要因を一応除外しても、練度の高い乗員と高性能の飛行機」が体当たり成功の条件とします。ところが、現実はその逆でした。
戦史叢書でも、特攻が常用されるようになったのは「比較的練度の低い者でも効果を挙げうるとみられたからである」としましたが「連合軍が対策を練ってからは、零戦といえど搭乗員の技量不十分では、ほとんど戦果を挙げられなくなった」と認めています。しかし、それを漫然と続けているのです。沖縄だけで水偵75機、練習機の白菊107機、複葉機の中練17機が投入されました。陸軍もノモンハンの主力という97戦が使われています。そんな作戦を搭乗員側から見れば「やぶれかぶれ」だったとしています。
また、専用機の桜花は、自力飛行能力がないため、最大滑空距離は2000m程度。母機にうんと近くまで行ってもらわないと海に落ちるしかなく、また、練習も困難で、練習中の死亡が続出しています。
人間魚雷回天の場合は、下からの要求が上層部を動かしたという点で違いますが、これも敵を見ながら操縦して突入というのにはほど遠く、高速で航そうしている時に特眼鏡という潜望鏡を上げれば波浪が目立つので上げるのは目標突入前の一瞬という困難さがありました。
体当たりボートの震洋、マルレは、奇襲兵器としてリンガエン湾では戦果を挙げていますが、米軍は出撃基地を探して叩く手段で対応しています。
体当たり兵器はあくまで奇襲兵器であれば相手の裏を掻けましたが、通常戦術化することでその効果は減り、航空特攻の場合は兵器も退化して、要員の無益な死亡を増やす一方となっていったと分析しています。
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第3章「犠牲と戦果」では、数字の分析を試み、撃沈47隻(上陸用・輸送用24を含む)、破損309隻と見積もりますが、これでも過大とします。
そして艦種別では護送空母3隻を除けば巡洋艦以上の船は一隻も撃沈できておらず、撃沈総トン数は上陸用・輸送用を除くとマレー沖海戦の半分、全艦艇を合わせてやっと敵大型空母1隻に匹敵するので、隻数で成果を論じるのは乱暴と結論づけます。また、これまで発表されていた数字は、例えば雑兵のかすり傷も戦果に入れているようなものと誇大さを指摘。そして「数字は時として甘美なる虚像にも奉仕する」として、注意を喚起します。
結論として、どの程度の破壊までとるか、どの艦種までとるかで命中率もさまざまとなるとしつつ、命中率はマレー沖海戦やサンゴ海海戦の雷爆撃と比較しても低いのは確かとします。そのうえで、犠牲の損耗が絶対であること、破壊力が低く6機の特攻機が命中しても大破で済んだ駆逐艦の例もあることなど、軍事的に有効ではなかったとしています。これが、事実への向き合い方でしょう。
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第4章「虚像と実態」では、志願制が「自発的に志願するよう」命令できたのが実態であるとしています。上下関係も何もない個人が自由な状態で判断するならいざしらず、上下関係で「私」を潰すことを求めた軍隊で、志願を募るというのは、最初から圧力がかかっているのです。
そして小沢さんは「全員志願するであろうから指名する」という乱暴なやり方から、輸送任務と言われていたのに着いたら特攻というだましうちまで、幅広く、純粋な志願があったことは否定しないまでも「させた側」の「志願者はいくらでもいた」とは乖離している事実を列挙します。
また、体当たりを拒否して何度も出撃した佐々木友治伍長が挙げられています。志願であれば、そのようなことはなかったとし、都合が悪いのか、戦史叢書では佐々木伍長を無視していると指摘しています。
また、関行男大尉が「天皇陛下のためにとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKA(妻)のために行くんだ」と報道班員小野田政氏に語り、これを基に書いた「人間関大尉」という原稿ができます。しかし、同僚の大尉や飛行長、参謀から「神様を人間扱いするのはけしからん」と書き直しを命じられ、ごまかし記事を書かされています。そして「悠久の大義に殉ず」と天皇のために献身したことを発表。ところが、戦後になると「家族や同胞を守るために死んだ」と天皇かくしをしていきます。
そして表向きは元気なふりをしても、陰では悩み、泣いていたのです。特攻に出てきたものの不調や敵影発見できずで帰還すると死んで来いと罵倒される環境。兵学校出身者を温存する姿勢に、予備学生や予科練生は荒れ、突入時に「日本海軍のバカヤロ」と打電したり、離陸直後に指揮所を銃撃したという話まで出ています。
これらを戦時だからで済ませるわけにはいかないと小沢氏は提起します。軍人であれば戦争に備えていたはずであり、戦況が不利なら無駄な被害を
減らし効果のある戦術を考えるべきで、さらに最初の見通しの誤りは仕方ないとしても「効果がなくなっているのに、強行させたことは許せない。それは『異常な』愚かしさである」との言葉に、その通りとしか言えないものがあります。
そんな上官の死の強要は、若者を破壊していきます。回天搭乗員の1人は「戦果よりなにより、送った人間が戻ってくるのがそんなに気に入らねえなら、誰が戦果なんか挙げるものか。勝手に自爆でもして死んでやらあ」と泣いてくやしがったとし、自ら死のうとしている若者をいたわれない上官が、戦後になって美談を語っても、若者は浮かばれないのです。
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第5章「天皇制軍隊の腐敗」では、日本軍上層部のエリート意識、形式主義、軍人勅諭の拡大解釈など、さまざまな問題点を挙げています。そして終章「つらい真実」で小沢氏はよく戦った者を評価するとし、よく戦わせなかった者を軽蔑すると明記します。
そして特攻隊礼賛者の定番「彼等の尊い犠牲のおかげで今がある」という言葉には承服できないとし、「平和な社会でこそその能力を発揮するに違いない学徒兵」が特攻隊の大半であったことを示し、彼等を殺しておいて、その死をどうして繁栄の基礎といえるのかと訴え、むしろ若者たちの死をのりこえて到来したのであり、繁栄の功績を死者にゆずるのは、「死を強いた者の責任回避」と強調します。
特攻隊を実施しなかったら、戦後の日本の再生と繁栄はより速やかだっただろうという小沢氏の指摘、全く同感です。特攻隊員のことを思うなら、ぜひその実態を暴いたこの本を一読していただきたいです。
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