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戦時下、長野県内中等学校の国防競技ー技術面は固より、精神面でも兵隊となる準備が整えられたようです
1939(昭和14)年に考案され、始まった「国防競技」。一方で前年の1938(昭和13)年に厚生省が発足し、やはり1939年には「国民体力章検定制度」を設けて青年男子を(のちに女子も)対象に検定によって体力向上を目指し、翌年の1940(昭和15)年には結核予防を主眼にした「国民体力法」を制定、家庭まかせだった健康管理に対して国が介入するようになります。
一連の動きは、1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件をきっかけとして始まった日本と中国の武力衝突「日中戦争」が短期間では片付かないことが、1938年にははっきりしてきました。そこで懸案の当時の国民病とされた結核対策を含め、将来を見越して壮健ですぐに戦闘に投入しうる若者を育成しようとしたことは明白です。
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さて、国防競技ですが、長野県内の中等学校では課外の班活動として、国防競技班が結成されていきます。こちら、伊北農商学校(現・辰野高等学校)の1940年度卒業写真帳(1941年3月発行)より、国防競技班の記念撮影です。「障碍通過競争」で使う俵(牽引競争で使用か)、圍壁が確認できます。
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こちらは、岡谷工業学校(現・岡谷工業高校)の1941(昭和16)年度卒業記念帳に掲載されている国防競技班です。やはり障碍通過競争で行う「水流通過」のポーズをとっています。通常は5人1組のところ、6人でやっているのは、うまく写真になるようにしたためか、卒業生の人数のためか、理由は不明です。班の指導は、教練のために各校に配置された将校が行っていたようです。青年学校では、在郷軍人会から教練の教官を出していたので、国防競技の指導も同様だったでしょう。
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続いて、1941(昭和16)年12月8日のマレー半島コタバル上陸と真珠湾奇襲で太平洋戦争が始まっていた1942(昭和17)年度の南安曇農学校(現・南安曇農業高校)卒業生のアルバムから、国防競技に絡む写真を抜粋します。
この年度、同校からは県大会を突破して第十三回明治神宮国民錬成大会(この年から「国民大会」を「錬成大会」に変更)に国防競技で出場しています。競技班とは明記していませんが、中核であったのは間違いないでしょう。下写真は「勝利の記録 戦場運動」と題した、松本市の県営競技場で行った錬成大会県予選の様子です。
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この予選で、障碍通過は県下新記録で優勝、手榴弾投擲突撃でも優勝していたとのことです。予選後の記念写真で、2枚の賞状がそれを物語っています。
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大会に向けて、さらに練習を重ねています。そして、松本市の長野県護国神社へ必勝祈願をたびたび行います。精神的にも兵となる心構えが、こうした行為を通じてはぐくまれたことでしょう。
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そして大会に向けて出発。母校の仲間が駅で応援してくれます。また、東京では卒業生らが歓迎会を開いています。こうした仲間のつながりは、戦争と無関係で嬉しいものです。
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いよいよ本番。神宮外苑での入場式の様子が記録されています。アルバムの持ち主は「総裁宮三笠宮殿下を仰ぎ我々選士一同は感激の中に29日の晴れの入場式は興行されたのであった。我々はその感激を新たに神宮の大前に武技を奉納するのは若人の本会(→懐)、文に過ぎざるものは無いと思う」(句読点挿入)と記しています。当時の天皇崇拝の雰囲気が伝わります。
そもそも、大会の起点が明治天皇の遺徳を偲び明治神宮に奉納するとして内務省主催により始められた運動の大会ということもあり、戦時下にあって、よりで「奉納」の意識が前面に出されているようです。
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競技写真は望遠用のカメラがなかったのでしょう。小さい写真2枚がありましたが、風化もあって様子が分かりませんでした。おそらく競技後にも記念写真を撮影していると思われるのですが、こちらは見当たりませんでした。これは、大会に出るまでは競技感があり、ここからは「奉納」という意識が高くなっているせいかもしれません。特にこの年からは「錬成大会」と名称も変わっており、よりその傾向が強まったのでしょう。
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この最終的に「錬成大会」となった大会は1943(昭和18)年で中断。戦後の国民体育大会につながります。現在でも天皇杯、皇后杯が出され、皇族が開会式に参加するといった点は、象徴天皇制下ではありますが、戦前と同様な点は留意が必要なのではないでしょうか。まずは、象徴天皇制が変質させられないよう、注視していく必要があるでしょう。
スポーツの向き合い方は人それぞれです。一方的な「軍隊として役立つため」といった価値観の押し付けは、もう、ごめんです。
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