中部軍司令部監修の月刊誌「国民防空」を読む(中)ー科学が登場するも、結局は精神。そして自己犠牲の称揚
財団法人阪神航空協会内に事務所を置いた国民防空出版協会が、1939(昭和14)年7月から少なくとも1944年9月まで発行を続けた月刊誌「国民防空」。ドリットル空襲で初の本土爆撃を受けたものの、まだ戦勝気分だった1942(昭和17)年の9月号と11月号を見てみましょう。
まず、9月号。第三回航空記念日に合わせて色刷りもきれいな表紙です。
「防空と国土計画座談会」(下)が冒頭に載っていて、目を通してみましたが、東京は建物が多すぎて人が地に足を付けていないから意識が高まらないので、住宅分譲では最低限の面積を決めて家庭菜園が作れるようにするべきとか言っていますが、いや、それができないから借家住まいなわけで。そして高層化しないと人を収容できないのですが。
続いて、同年4月18日のドリトル空襲を受けた「空襲の所感」を陸軍築城部本部陸軍技師が執筆しているのですが、結局は「近接消防戦闘」を個人に求めています。
さて、一応航空記念日特集として雑多な記事をまとめていますが、「優秀機による空襲は必至」と題した陸軍航空本部大阪監督官長・田中誠三氏の記事は、飛行機の技術の進歩を説明しつつ、アメリカに備える覚悟として、日本軍も「空軍の独立」か、陸海軍に分かれざるを得ないなら「航空に関する技術なり製造なりは」ひとまとめにしたほうが国防に有利と、大変大事なことを提案しています。
当時は同じような性能の飛行機を別々に発注したり、同じ会社でもそれぞれの担当技術者の交流を禁じたりと、大変無駄な縄張り争いをしていて、資材割当も半分ずつで、重点的な製造ができないという事態。防空も本土は陸軍、海軍は海軍基地のある要港周辺の防空と分かれていたぐらいですから。残念ながらこれらは実現せず、秋水の共同制作があった程度でした。
一方、航空兵速成のため、各中等学校に滑空部が設けられたことに合わせ、グライダーの基礎講座の連載が始まっていました。
防空対策では、防空壕を作れない都市の住宅や商店街などに向けて、最初の爆発だけに対処し消火に飛び出すための防空待避所を紹介しています。こうして待避させる考えは焼夷弾が1家に1発という程度の想定ならなんとかなったでしょうが、実態としては遥かに多くの焼夷弾攻撃で、屋内で亡くなる例が後を絶ちませんでした。
そして消火には火たたき。有効な使い方、作り方を解説しています。
そして毎回載っている子ども向け「小国民防空」では、米空軍が爆撃後に不時着したら降伏して捕虜になるが、日本軍はそうではないとし、
「隊長機を先頭に、目的物に向かってまっしぐらに飛行機を叩きつけるでしょう」「この自爆こそ(略)我が大和魂の精華」「しかも、笑って死地に飛び込んでいくのが少年航空兵」と、死を称揚しています。
11月号は「科学防空特集号」と銘打ちます。ここでも「科学」です。何か期待をさせる魔法の言葉です。そして、期待をしてみてみます。
「工場及び特殊防空座談会」では
特集の防空兵器は高射砲、照空灯と聴音機、機関砲の発展を説明しつつ、これからは電気での一貫対空施設が必要として「発明家出でよ」と。レーダーを組み合わせた高射装置のことですが、発明家…(´;ω;`)
そして「科学的」に調べた窓ガラス対策。
気象情報を敵に知らせないのも「科学防空」と。敵にも味方にも知らせないことで不便は我慢せよと。まあ、戦争末期は米軍が日本近海の気象情報を収集、これを日本側が使ってやっと状況をつかんでいたという情けない状態になってしまうのですが。長期予報もだめなので、農家が苦労します。
さて、新兵器の開発とあります。気を取り直して、読んでみますと…大型照空灯…。確かに、従来より強力にしたといえば新兵器でしょうが…
科学で特集をしても、レーダーの話が全然出てきません。ドイツやイギリスでは実用化しているので紹介するだけでもいいのに、国内の情報にも触れていない…。やはり呪文「科学」でした。
関連記事 「国民防空を読む」(上)