戦時下、ささやかな楽しみを支えた「代用コーヒー」の話
コーヒーが日本に入ってきたのは1858(安政5)年のことで、日米修航通商条約締結とともに輸入されたのが始まりです。日本最初のコーヒー店ができたのは1888(明治21)年のことですが、まだ上流階級の飲み物でした。
それでも庶民も何とかして味わいたい、雰囲気だけでも感じたいこということで、このころ、早くも代用コーヒーが登場します。「大豆を焼いたり麦を煎じて見た目をコーヒーと同じにして、甘く飲みやすくした『コーヒー』」がこれに当たり、専門のメーカーも存在しました。しかし、あくまで代用ではなく、日本人の好みに合わせた新しい飲料をつくるのが目的だったということで、こうした技術が、戦時下の代用コーヒー製造に役立つこととなります。(「四季の珈琲Vol.18」いなほ書房 より)。
コーヒー豆は基本的に輸入品でしたので、1937(昭和12)年がピークとなりますが、同年7月7日の盧溝橋事件をきっかけとした日中戦争の始まりを受けて、翌年の1938年からコーヒー豆の輸入規制が始まり、限られたコーヒー豆を分配する「大日本珈琲統制組合」が結成されます。1939(昭和14)年7月には公定価格制度施行のための物品販売価格取締規則が公布施行され、公定価格が次々と決められていきます。コーヒーも1杯15銭と決められたほか、コーヒーは奢侈品ということで10%の物品税がかけられることになります。それまで50銭などとしていた高級なコーヒーでは引き合わないとして姿を消し、今度は本当に「代用コーヒー」が出回り始めることになります。
こちら、同年2月の清涼飲料等の値上げ価格表で、コーヒー(瓶入り)も引き上げられています。ただ、価格の安さから、いわゆるコーヒー味の代用飲料だったのではないかと思われます。
代用コーヒーの材料としては、大麦、裸麦、トウモロコシ、ソバ、大豆、小豆、ソラマメ、落花生、甘藷、干しイチジクなどが使われています。1940年の「茶と珈琲」によると、「植物性物質であれば、大方のものは珈琲代用品の原料になるが、代用品は、その目的によって大きく2つに分けられる。すなわち量を増すものと、浸出液を濃厚にするものとである。前者に用いられるのはコーヒー殻、葡萄核などであるが、これらは良心的にみて推奨できない。後者の原料には右の大豆のほかに大麦、ライムギ、麦芽、ソバ、ニンジン、タンポポの根などがある」としています。
また、婦人雑誌「主婦之友」の1939年12月号には代用食品使い方実談集の中に「栄養コーヒー」と題して、カラスムギと黒豆を煎じて作る方法が紹介されるほどで、さまざまな方法が試みられたようです。
一方、1941(昭和16)年9月には農林省から「代用珈琲統制要綱」が告示され、以後はこの規定に従ったものだけになります。代用品の種類によって1-4級、混合割合で1-3号の企画が定められて「企画コーヒー」と呼ばれるようになりました。しかし、1944年にはコーヒー豆の輸入が完全に止まり、代用コーヒーすらもこのころには姿を消していったようです。輸入再開は1950(昭和25)年のことでした。
戦後のエピソードを2つ。敗戦とともに、緒戦の勝利で軍が南方から持ち帰ったコーヒー豆の隠匿物資が長野県を始め群馬、大阪、岐阜、滋賀などで大量に見つかったということです。この存在が明るみになったのは、長野県から国への問い合わせで「払下げをしたいが、コーヒー豆の公定価格を教えてほしい」という律儀なものでした。おかげで2年ほどは本物のコーヒーが飲めたというのですから、かなりな量が隠されていたということです(「四季の珈琲」より)。
そして、もう一つは長野県王滝村で作られていた「ごんぐりこおひい」の事です。王滝村はミズナラがたくさんあり、このドングリを特産化しようと昔ながらのあく抜き技術を活用した取り組みが行われました。一度煮たドングリを一週間天日で干して、最初は重曹を入れた水で沸かし、次いで真水に入れ替えて4-5日煮てあくをとったものを、ざるでこしてペースト状にし、冷凍にしたものを適宜解凍して焙煎したもので「コーヒー風」の飲料を提供していました。風味を近づけるため、焙煎の工夫など苦労したそうです。王滝村では、ドングリの粉を食用に使っていたこともあり、こうした工夫をしたのでした。ほかのドングリの粉を使ったクッキーなどと一緒に味わえる店がありましたが、現在は閉店しているようです。
◇
嗜好品というものは、なければ我慢もできなくはありませんが、生活を豊かにしてくれる大事なものです。戦争は、こんなささやかなことも奪っていくのです。