なぜこんにゃくの配給が途切れるのかーその答えは米本土攻撃兵器にあり
長野県下諏訪町の隣組資料を入手しました。主に配給品(有料)の各家庭への割当記録簿で、それ自体の分析が当時の庶民の生活を浮き彫りにしてくれます。その中で特に、さまざまなものがひっ迫してきた1944(昭和19)年の台帳に注目しました。
台帳には、配給品別で配給があった数量と隣組への割当状況が記入されています。一度に全戸に分けられない場合は、過去と比べて不公平のないように工夫し、頑張っていたことが分かります。肉類が少ないのは仕方がないとして、豆腐や魚類はそこそこの回数、配給(有料)されました。
そんな中で、ひときわ目立つのが、コンニャクの配給です。肉類でさえ年間3回の配給があったのに、わずか2回、それも7枚だけで、いきわたらなかった家庭も出ています。わざわざ「コンニャクノ部」としたページがあることから、普通にもっと配給されても良いはずです。
その答えは、こちら、上毛新聞の1945(昭和20)年2月19日朝刊に乗っていました。日本軍が開発した気球に爆弾をぶら下げてアメリカを攻撃する兵器「風船爆弾」の材料として、全国からコンニャク芋、こんにゃく粉を回収したからでした。
風船爆弾は、冬場のジェット気流を利用して米国本土に多数の気球を放ち、それぞれにぶら下げた爆弾で米本土を直接攻撃する兵器で、1942(昭和17)年の米軍の初空襲「ドゥリトル空襲」への報復として構想されました。
本体の気球部分は和紙をコンニャク糊で重ねて張り合わせてから強化と軟化の処理をして裁断。直径10メートルの気球に貼り合わせたもの。処理の過程で青色になったということです。風船爆弾の設計には、陸軍登戸研究所が関与していました。
「風船爆弾 純国産兵器『ふ号』の記録」(吉野興一)によりますと、こんにゃく糊の準備は1943(昭和18)年に始まり、陸軍からの緊急要請に農林省が受けざるを得ず、生産地のコンニャク芋も、加工したこんにゃく粉も差し押さえられます。同年9月に、農林省から緊急軍需用供出要項が東京のこんにゃく問屋の組合に出されていて、翌年の1944(昭和19)年4-5月に大量のこんにゃく粉を届けたという証言もあります。
下写真の気球と人を比較すると、風船爆弾の大きさが分かります。
風船爆弾の製造には各地の女子学生を動員し、長野県からも飯田、上田、岡谷、野沢、塩尻、下諏訪の各高等女学校の生徒が参加しました(前掲書)。
完成した風船爆弾は1944年11月から翌年3月中旬ごろにかけておよそ9000発が放射され、30時間ほどで米国に到達。それぞれ15キロほどの爆弾を搭載していて、約1000発が米国に到達し、6人の民間人死者、山火事、停電などを起こしていますが、主に心理的な効果を狙っていました。一方、米軍も国民の動揺を考え報道規制した上、レーダーが効かない風船爆弾の監視に手間を割くことを余儀なくされています(前掲書)。
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1943年に全国のこんにゃく粉まで差し押さえられたとありますが、さきほどの配給品台帳では1944年2月と3月に配給がありました。
東京の問屋組合にこんにゃく粉の供出要項が出されたのが1943年9月となっていますが、地方への徹底がやや遅れたのか、引き渡すまでの補償交渉に時間がかかったのか、いずれにしても、差し押さえ前に既に製品になっていた最後のこんにゃくが下諏訪町で配給されたと推定されます。
ちょうど1944年4-5月に風船爆弾製造が本格化したことからしても、その後の配給がないのはつじつまが合います。この頃には地方で見落とされていたこんにゃく粉まで、すべて押さえられたと考えてよいかもしれません。戦争は、ここまでやってしまうものなのです。