青年たちの訓練に使われた木製の模擬銃ー撃てなくても取扱に慣れ、いざ赤紙でも訓練短縮を狙う
戦前の日本では1925(大正14)年以後、尋常高等小学校(のちに国民学校)を卒業して中等学校や師範学校に入った男子に対し、必ず教練の授業が行われるようになりました。一方、進学せず農家の後継ぎや職業人となる青年にも教練を施すため青年訓練所が作られ、後に青年学校となって、日中戦争中の1939(昭和14)年には青年学校へ入ることが義務付けられました。ちなみに、青年学校はトータル800時間のうち、半分の400時間が教練でした。
教練では整列や歩幅75センチにそろえた行進、ゲートル着用、射撃姿勢など、軍隊の基礎を一通り学びます。仕上がりを披露する査閲などもありました。こちらに紹介する木製の小銃は、こうした教練で銃の扱いに慣れるため使われたとみられます。
長さはおおむね130センチあり、三八式歩兵銃と同じ長さ、形をしています。一本の木を削りだして作ってあります。
先端部とやや中央より、実銃とほぼ同じ位置に金属の帯が巻いてあり、雰囲気を高めるほか、割れを抑える目的もあったと思われます。引鉄(ひきがね)と用心鉄(ようじんがね)も金属で作ってありましたが、あとはすべて木製です。先端から見ると、銃身は木製とはっきりわかり、清掃用のさく杖は形だけですが、訓練用の銃剣を装着する金具は使ったように思えます。
銃に弾を込めるボルトの取っ手部分も木製で動きませんが、実銃の金属部分にあたる銃身や機関部は黒い塗装を施してあります。また、狙いをつける時に立てて使う照尺も、形だけは作って雰囲気を高めています。
教練用には、実銃と同じか少し小さい、空砲や射撃練習用の弾丸も打てる「教練銃」もありました。参考までに、2世代前の村田銃の模擬銃をご覧ください。
中等学校、青年学校といっても、今の中高生ですからね。大人が使う三八式歩兵銃では負担が大きかったので、おそらく実銃の大きさに慣れるために木製の模擬銃も利用したのではないでしょうか。大きさは同じですが重さは1キロほどで実銃の3・95キロに比べずっと軽く、取扱いは容易だったでしょう。
「捧げ銃」や、立ってまっすぐに持っている銃を肩に担うなどの動作は「ライフルドリル」といい、きちんと手順が決まっていました。また、銃を抱えての、匍匐前進などにも有効だったと想像します。
また、多機能の模擬銃もありましたが、当然値段が高くなるという問題がありました。予算の少ない学校では高級な品をそろえられず、そのためにも無可動の木製銃の需要はあったでしょう。こちら、1927(昭和2)年の運動用具のカタログですが、開くと教練用の道具もそろって売っていました。模擬銃ももちろんありました。
価格表では、訓練用に最も適すると進めている銃が5円80銭。木製の完全固定の銃は2円。一定の人数を揃えるとなると、3倍近い価格差は大きかったでしょう。
いずれにしても、若者の誰が徴兵されてもすぐ役立つように、緊急時に短期間の訓練で前線に出せるように、青年たちすべてにこうした訓練をさせていた時代を示す、貴重な遺物といえるでしょう。