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日中戦争の本格化に伴って「長野県支那事変銃後後援会」が発足、各地の有力者に寄付の封書が次々と送られましたが…

 1937(昭和12)年7月7日に発生した盧溝橋事件で、日本軍と中国軍が戦火を交えましたが、当初は停戦、交渉、また戦闘、交渉と続きましたが、上海での戦闘が本格化。海軍が南京を渡洋爆撃するに及んで、ついに政府は「長期戦を辞さず」と本格的な戦闘態勢を表明します。

1937年7月8日付福岡日日新聞号外。盧溝橋事件発生
1937年9月5日付大阪毎日新聞号外

 それと軌を一にして、長野県内の有力者とみられる家庭には、次々と長野県からの封書が届きます。「長野県支那事変銃後後援会」の張り札付きで。

岡谷市の個人宛に届いた封書

 中身は、本格化した支那事変に対応するため「長野県支那事変銃後後援会」を知事を会長に発足させた案内で、後援会の活動のため寄付を求めるものでした。当時の知事は、国の役人であり、国が長期戦の方針を固めたことを受けて、各県知事に指示したものとみられます。会の名前が貼り付けなのは、従来あった平時向けの「長野県銃後後援会」の封筒を流用したためでした。

後援会の発足と寄付を求める会長(知事)名の印刷手紙
同封されていた趣意書

 趣意書の文書は当時の定型文のようなもので、出征兵士を支え戦争を支援するための組織を結成したので、度重なる寄付求めだが協力してほしいとの内容です。
 続けて設立発起人の名前が連なっています。衆議院議員としては、信州郷軍同志会の中原謹司、良識派の植原悦二郎、無産派の野溝勝らが、皆横並びで顔を揃えています。

当時の長野県内の有力者が分かる
肩書は入れてありませんが、信濃毎日新聞の小坂武雄の名もあります

 さて、後援会規約を見ますと、会の活動は軍人への慰問、戦死傷者や遺家族への応援、戦意高揚などとしていますが、給付規定などは別途用意したのか、見当たりません。まだ追い付いていなかったのかも。

 そして経費は一に「補助金及寄付金」としてあり、まさに出たとこ勝負。寄付がたくさん集まれば県の補助金は押さえられるというところでしょうか。

寄付頼みの後援会

 さて、このあと日中戦争は年内に中国の首都南京を陥落させますが、蒋介石は漢口に首都を移転させて徹底抗戦の構え。とても「長くても数カ月」では済まない状態となり、1938(昭和13)年1月28日、杉山陸軍大臣が長期戦の覚悟を求めます。日清、日露、第一次大戦とも2年以内だったことから、それぐらいを「長期戦」としたのでしょう。

1938年1月28日付名古屋新聞号外

 そして、この発表を受け、同年2月3日付で、長野県支那事変銃後後援会は、またまた各地の有力者に封書を送ります。おそらく、全国でも同様だったのではないでしょうか。

送られた封書と中身

 内容は、長期戦となることを踏まえて、あらためての会長名による寄付依頼の手紙と、今度は寄付申込書も同封してあり、手際がよくなっています。

長期戦の覚悟を求める内容
日付と宛名のみ手書き
振込先も明記した寄付申込書

 当初は長期戦を想定していなかったので、追加の寄付を呼び掛けたのでしょう。しかし、この日中戦争は太平洋戦争期も含めて8年も続くのです。はたして後援会の事業がどこまでできたか。特に太平洋戦争に突入してからはどうなったか。また、会計はきちんと処理されたのか…。戦時のどさくさでいろいろなことが重なり、うやむやとなったことも多かったのではないかと推察します。
 いずれにしても、こうしたことが必要となるのは戦争が起きるから。戦争を回避することは、人命はもちろん、さまざまなコストも助けることになるのです。損得で比較できることではありませんが、あえて触れるのは、戦争を回避するための平時のコストなど、実際に戦争が起きることを思えば安いものであると。そして、戦争回避は軍事の抑止によらず、外交、交流、さまざまな手段でもって実現するのが筋です。そんなことにも思いをいたしていただければ幸いです。

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