![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/171603281/rectangle_large_type_2_de85b7d8e81824e89640dd482c447814.jpeg?width=1200)
戦時下、結氷した諏訪湖ではグライダー訓練が行われましたー将来の軍用機飛行士養成のために
内陸の高地にあり、全面結氷することで知られる長野県の諏訪湖。大正時代には黎明期の飛行機による離着陸演習が1917(大正6)年と1923(大正12)年に行われましたが、その後は航空機の発達もあり、諏訪湖での航空機利用は途絶えていました。
一方、1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件を発端に日中戦争が始まりますと、翌年の1938(昭和13)年2月、文部省は文部次官通牒で中等学校における滑空練習を奨励します。これは、将来の飛行兵の育成を狙っていたことは言うまでもありません。
諏訪地方では、霧ケ峰高原が滑空機ーグライダーの訓練場所として知られており、練習も盛んに行われていましたが、こうした中、当時は冬場に全面結氷するのが当たり前だった諏訪湖で練習できれば効率が良いと思われたのでしょう。同年12月に結成された「上諏訪滑空研究会」が1939(昭和14)年1月22日、初めての氷上訓練を行います。その様子が、翌日の信濃毎日新聞で紹介されていました。
![](https://assets.st-note.com/img/1737810900-FcwvyiuTKmXHjJrnNp073W46.jpg?width=1200)
記事によりますと「グライダーの氷上離着陸は我国で最初の試みとてその成果を注目されたが、恰も氷上へ約10センチの積雪があったので操作は至極好調子」ということで、離着陸の際の状況は予想外の収穫だったということです。なお、当日は諏訪中等学校(現・諏訪青陵高校)学生団のスケート大会もあり、見物人でにぎわったとのこと。まだ、日中戦争の緊張感が伝わっていないころの雰囲気があります。
翌年の2月にも第二回耐寒氷上滑空訓練を行っていますが、この時は大日本滑空青年団本部から摺澤大佐が出張し、訓練を指揮・研究したということです。なお、このころには早くも二級滑空士7人、三級滑空士5人を輩出するまでになり「他地方では真似の出来ぬ氷上滑空訓練に力を注いで、我国航空界の発展に貢献したい」と意気込んでいた様子です。
![](https://assets.st-note.com/img/1737811555-en2urqQHXhWLbAlKCFkw61EU.jpg?width=1200)
そして1941(昭和16)年12月8日のコタバル上陸作戦と真珠湾空襲で始まった太平洋戦争下、1943(昭和18)年2月4日に大日本飛行協会中部連支部と滑空研究会、地元の高島青年学校滑空班による合同の氷上滑空研究が行われました。軽量の初級機と重量がある高級機をそれぞれ使った訓練で、発着の仕方、操縦の注意点などを研究しています。
当時の滑空機は、機体の尾部を杭などにつないで固定し、ゴム索を引いてギリギリまで張ったところで「止め杭」から離して飛翔させました。この時は、氷上であるので止め杭は使わず、青年学校滑空班の「屈強な生徒数名によって」飛翔の瞬間まで固定させる方法をとりましたが、研究の余地があるとのことになりました。一方、ゴム索を引く側は、履物に滑り止めの工夫をすれば問題はないこと、ここまで冷えてもゴム索が損傷するようなことはないと確認しています。
![](https://assets.st-note.com/img/1737812951-E3WM6jomTPpisQSXB987bwdt.jpg?width=1200)
また、記事によると高級機は自動車のウインチで引いて離陸させています。湖岸からは無理な作業で、この時も自動車が乗り入れられるほどの氷の厚さがあったとみられます。1944(昭和19)年にも1月28日から2月10日まで訓練が予定され、この際には当時結成されていた諏訪市青少年航空隊20人も参加。いよいよ緊張感が高くなっています。
また、この時期には諏訪中等学校滑空訓練部20人余りも、この訓練に参加していたとみられる中部連合滑空訓練所田中一級滑空士の指導で連日諏訪湖上での訓練を実施していました。
同年1月31日発行の信濃毎日新聞夕刊は「何れも熾烈な航空決戦へ燃ゆる若き情熱と闘魂を捧げる本年度航空志願者の粒揃いだけに、大空の制覇の第一関門としての訓練は自発的練習によって行われ、その様相は凄さが加わって午前八時から夕刻まで一時の休みなく僅か二、三回の搭乗で既に初級機氷上五㍍滑空はなんなく習得」といった具合で紹介。諏訪中等学校生のスケート大会でにぎわっていた、日中戦争当時の雰囲気は消し飛んでいます。
![](https://assets.st-note.com/img/1737813861-i8jdXqBWDYzLevFb4SflJkVO.jpg?width=1200)
一方、この年の訓練では、諏訪特有の季節風がグライダーには良かったとみられ、教官クラスには約2時間飛行して途中で連続8回の宙返りまで見せたということでした。この滑空士は「寒くて仕方ないから降りて来たがあの気流なら一日でも一晩でも飛んでいられますよ」と語っていたということです。さまざまな気象条件が、諏訪湖上のグライダー訓練には適していたようです。
1945(昭和20)年も1月29日から2月15日までの日程で訓練を計画。この時は初級36人、中級と高級で60人におよぶ多数が参加。参集範囲も長野県内各地に広がっており「少年飛行兵志願に大きく役立つ実地を主眼としているだけに、訓練生の熱意は寒波に流汗の猛訓練が続けられ成果は期待されている」(1945年1月31日信濃毎日新聞記事より)となっていました。
戦局の悪化を肌で感じる中、戦意を高めた少年らが勇んで来た様子が伝わります。しかし、こうした少年たちが速成教育で飛行士となり、行く先は空前絶後の愚策、飛行機の体当たり戦法でした。あるいは飛行機もなく、体当たり用のボート震洋やマルレ、そして潜水具を装着して海中に潜む「伏龍」といった自殺作戦にまで投入されていくのです。
諏訪湖の生態系に詳しい沖野外輝男・信州大名誉教授は、諏訪湖で氷が割れてせりあがる「御神渡り」の2017年の勉強会で、1451年から2000年までを50年に区切って御神渡りができない「明けの海」の回数を紹介しています。1950年まではゼロから10回と御神渡りができないことの方が少なかったのに対し、1951年から2000年の50年間は23回にもなったということです。特に諏訪の年平均気温が1980年代以降上昇し、地球温暖化の影響を示唆しています。
全面結氷した諏訪湖が戦争のために使われた過去は、辛いことです。一方で、諏訪湖が凍らなくなることも重大なことととらえなければなりません。湖の観察を続ける中で「氷のこの字もない」という八剣神社宮司の言葉が、何を示すか。争いなど続ける時代ではないことを、はっきりと示しているように思えるのです。
いいなと思ったら応援しよう!
![信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/117072980/profile_8583b70d6b5e719da1c658eebcfe486f.jpg?width=600&crop=1:1,smart)