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長野赤十字病院の関係者でつくる院友会の年に一度の会報、1943年の惨状と反比例する過激な内容
長野県長野市の長野赤十字病院(日本赤十字社長野支部病院)関係者でつくる「院友会」は、1921(大正10)年以来、毎年一度、会報「院友」を発行してきました。1942(昭和17)年4月20日発行の院友22号は、太平洋戦争開戦で開戦詔書を載せたり会長らの言葉も緊迫していますが、まだ会員の文芸作品や名簿、各科の報告などを含め126㌻あり、グラビアでは救護看護婦卒業生の記念写真も掲載していました。
ところが、わずか1年後、それも発行予定を大幅に過ぎた1943(昭和18)年6月27日発行の院友23号はグラビアも文芸もなく、名簿も異動者のみに絞ったわずか20㌻の会報となってしまいました。紙の統制で、不要不急とされたのでしょうか。編集者のお詫びのような編集後記が切ないところです。
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さて、これだけ激変した院友。切迫感によるカラ元気か、勇ましい言葉ばかりが並びます。まず、院友会会長の巻頭言をどうぞ。
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最後の3行。「大和民族たるものの人生には目的はない」と言い切り、咲いて散るだけと。とにかく身を神=天皇=国家にゆだねよと言って居るに等しいものです。目的を持たない人生を求められ、ただ時世に合わせて機械のように動き、止まれば捨てられるー病院に携わる者の言葉からして、この調子です。ここまで端的に戦前日本の精神性を表した文も珍しいのではないでしょうか。
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そして、既に戦局が傾いていることは、この会報の変貌ぶりからも分かることですが、寄稿の一つ「膨張の日本」は、緒戦の勝利だけをみて実に勇ましく、しかし空虚なものとなっています。
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米英の姿をけなした後、「桜の国日本。富士の国日本。日本は太平洋の碧い波の穂の生んだ国である。そして輝ける未来を約束せられその最大張力を知らず膨張する国である。膨張の日本」「今や決戦の時である(略)銃後国民一致協力あらゆる困苦欠乏に堪え米英撃滅の鉄槌を揮い、益々以て大東亜共栄圏の建設のため邁進しなければならない」。開戦詔書には自存自衛のやむを得ざる戦いとあっただけなのに、こうして拡大解釈する。そして、苦労に堪えることを賛美する。その物資の欠乏で前線が苦しんでいる、臣民が苦しんでいるにも関わらず。
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3年間の学びを終えた救護看護婦生徒卒業生の答辞。写真はないものの、せめてもと掲載されています。内容はごく自然なもので救いを感じますが、冒頭に「撃ちてし止まん若草の正に萌え出でんとしている今日…」と戦時標語が入るのが、緊迫した状勢を示し、答辞の中に「有難いもったいないと叫びつつ、つつましい日本の人となるべく努力いたします」とあるのが悲壮です。
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そして、従来は各科、病棟のそれぞれの報告や文章が載っていましたが、大減ページで2つのみ。そのうちの薬局便りを見てみます。半分の文章だけですが、もはや不足という言葉さえ出ず、あるもので切り詰めていくという切実な現状が表れています。
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1943年の発行がこの状態です。はたして、この先発行できたのかどうかも危うい。そして何より、病院の機能がどこまで持ちこたえられたのか。戦場の野戦病院における物資不足はさまざまな文で書かれていますが、国内でももはや十分な医療を提供できなかったことは、想像に難くありません。ゆえに「咲いて散るだけ」と。巻頭言は、実にあきらめの境地から出た言葉だったのか。神に生き、神に死ぬのは明るい心、それが大和心と。
人生は誰の為にあるのか。まず第一は各個人のためでしょう。そのうえで各人が人生の目標、生きがいを持ち、充実していくことが、ひいては社会の充実につながるのではないでしょうか。他者を尊重する気持ちにつながるのではないでしょうか。再び「咲いて散るだけ」の世界を生み出したくはありません。
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