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ある農家の昭和18年ー砂糖なしの正月に始まり、常会での配給品割当、出征、戦死、そして「勝ちに勝った年」と総括

 岡山県打穴村(うたのそんー現・美咲町)でナシの果樹栽培を中心とした農家であり、村議会議員も務めていた男性が、1943(昭和18)年1月1日から12月31日まで記録した日記「家乗」を入手しました。基本的には農事記録ですが、あちこちに戦時の生活が顔を出します。そんな時代を表す部分を拾い出して、議員とはいえ市井の人の目で見た1943年を追体験してみます。なお、原文はカタカナ書きですが、転載部分はひらがなに改めました。

 1月1日「雑煮を祝い国旗を掲げて祝意を表した」
 1月2日「今年は砂糖もなく実際戦時気分横溢のお正月をする」
 お餅は食べられましたが、砂糖が入手できないとなると、煮豆も砂糖なしの醤油味だったのでしょうか。

1月2日「今年は砂糖もなく」に生活の厳しさが

 2月6日「今年の決戦体制の糧食政策に順応して麦二俵供出することとし、俵薦の用意に取り掛かる」。農家には、日常的に食糧供出の割当がなされていた、さまざまなものを出していた日々が記録されています。農家といえども、まじめに応じていると自分の家の消費もきつくなっていきます。

「麦二俵供出」を決意して俵作りにとりかかる

 2月23日 「明日行わるる軍人遺家族慰安会の劇の稽古上を見に行った」。この村からも帰還する人、戦死する人、出征する人、何人もの慰問や激励に出向いている記述が出てきます。そこでは、こうした慰安会も求められたことでしょう。

この慰安会には、娘が参加したようです。

 2月26日 子どもが満州の陸軍部隊にいたようで「郵便局にて指揮刀を」送っています。ところが後日、武器を送ったことで警察から調査を受けています。こんなところにも監視社会を感じます。

指揮刀を息子に送りますが、このせいで警察に事情を確認されています

 3月2日「入隊で駅に見送る」。こうした記述はちょくちょく出てきます。村会議員という立場もあったせいでしょう。

入隊兵を駅で見送り

 3月10日 「この日、陸軍記念日で婦人会は戦病死者の為□□□断髪献納などをした」。ちょっと癖字が読めませんが、婦人会の断髪献納など、珍しい行為が記録されています。

「断髪献納」というあたり、袖を切って、といった精神論と交わる

 3月29日「夜、福井薫君方へ臨時召集(赤紙)の別宴に臨む。餞別金2円50銭を送る」。翌日は午前6時40分(7時は6時の誤り)から、神社でもう一人と合わせた壮行式。8時半の汽車で出発するのを見送っています。このころの出征風景が浮かびます。

出征前夜に送別の宴はまだできたころでした。

 6月16日「学校で児童服とシャツの配給抽選に出て行って、石戸シャツ87銭、花ヤ服5円45銭支払」。各学校に配給割当が来るので、その抽選会に出た時の様子です。当番をしたようですが、この時はシャツ、児童服とも1組の配給しかなかったようです。そして配給はあくまで割当であり、実費でした。

学校へ割り当てられた品は抽選で選ばれた人に販売されました

 7月2日「満州にて戦病死せん妹田聰君の公報30日に着に付、本日本日午前8時から慰霊祭執り行う」。日本軍は当時、広範囲に展開しており、ビルマでの戦病死者の慰霊祭も行われます。

戦病死者の慰霊祭もよく目にするように
12月3日、ビルマ方面の戦地にて死亡

 7月17日「国債(割引)十円券割当てられて引受、支出7円」。このほか、貯蓄に関する記述も頻繁に出てきます。ここに出てきた「大東亜戦争割引国債は、買う時には7円で、払い戻し期日が過ぎれば10円が戻されるというものですが、戦後の預金封鎖、インフレで紙くずとなります。

国債割当、貯蓄と戦費への協力が続きます。

 7月20日「県民号飛行機寄付6月7月分60銭」。各地で飛行機献納運動が行われていました。これも寄付とはいえ、割当のようなものでした。

飛行機献納資金は多数集められましたが、実際にどう使われたかは不明

 そして7月30日、筆者にとっての大事件。自転車で溝に落ちて腰を痛めてしまいます。

腰を痛めてしまい年末まで尾を引いている

 こうした日々を挟みながら、熱心に農業に取り組んでいます。特に果樹栽培なので、施肥や消毒には手間がかかったようです。そして迎えた大晦日。酒の配給割当があって、一軒5合、受け代4円10銭。そしてイワシの配給があり、1尾37銭。この記述では、隣組に10匹か一軒にかはよく分かりませんが、当時の配給状況からすれば、1軒で1尾と見た方が良いでしょう。これが、1943年大晦日の特別な材料でした。

酒と鰯の配給あるも、分量はわずか

 そして1年を振り返ります。「戦争も勝ちに勝ったが近来南洋の小島に敵はひつこくやって来る。局部的にはアッツ島二千の玉砕、又南米ガダルカナル島、オタワ(タラワの誤り)マキンに四千五百の精鋭玉砕等、一部悲痛の局面を見たるも大局にはビクともせぬ態勢を維持して居る。何卒明くる昭和十九年には大勝利を得て敵を降伏せしむるに至らねばならぬ」と。いったいどうみたらそんな風に見えるのか、局地的な戦闘の報道しか許されない中では、戦略的な後退局面が感じられなかったのでしょう。ましてや、ほとんど戦果のなかったブーゲンビル島沖航空戦で多大な戦果が宣伝されましたし。

大本営発表の威力を見よ!

 そして、最後には、勝つために必要な食糧の増産に不作だったため寄与できなかったこと、自分がけがをして動けなかったことを申し訳なく回顧し、「お国のために働けるようになりたいものだ」と締めくくっています。村会議員という、権力に近い指導的な人であるとはいえ、一般庶民の考えも近いものだったのでしょう。

奮闘を来年への期待に

 戦争とは、人にここまで従属させるものなのです。そして、この日記、基本的に自分の身の回りのことだけしか記さず、例えば山本五十六の戦死などにも触れていません。新聞は読んでいて知っているはずなのですが、自分のやるべきことをやるだけ、という思考が見えてきます。当時としては仕方がない面もあるでしょうが、これだけ周囲の人の生死がかかっていることですから、もっと政治、戦争の指導に意見を持っていくべきところなのでしょうが、上意下達の実態がこれです。
 現代も、こうした陥穽に陥っているのではないでしょうか。政治に目を向けさせないマスコミらしきもの、自分の信じたい情報だけを集めて安心を得るネットバブル。もっと、夢を持ち、社会に目を向け、差別に抵抗し、皆がそれぞれ求めるところを追える社会が、きっと戦争を回避する力になるでしょう。

 最後に、1943年の新聞紙面をいくつか紹介させていただきます。嘘の情報、虚栄の大東亜共栄圏に、日本人の多くは見事に騙されていたのです。上の人に任せておけばいいという思考の下で。

昨年以来の半年の大戦果
ガダルカナル島の中沢挺身隊の活躍。「転進」後の報道
学徒も出陣
虚妄の大東亜会議
玉砕も美化
翌年の先食いになるだけの「決勝兵力」


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信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
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