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火薬を作る原料不足で家庭の「綿」にも「動員下令」!何かに取り組んでいれば「戦争やってる感」で不安が紛れたか
1937(昭和12)年7月以来の日中戦争で既に国内の戦争資源が底をつき始め、南洋に資源を求めて仏印に進駐し、米国から石油禁輸を食らったのを機に始まった、太平洋戦争。元々モノが不足しているのに中国大陸と太平洋で戦争を続けるという、正気の沙汰とは思えない行動を1941(昭和16)年12月から始めたものの、油槽船不足や船団護衛の欠如などもたたり、占領地から資源を収奪できません。
そして、準備して奇襲を加えた緒戦の勝利も、特に米軍の反攻が強くなってきた1943(昭和18)年にはガダルカナル島からの撤退、ソロモンの制空制海権の喪失とともに、乏しい輸送船がますます沈められるようになり、日本国内へ入ってくる物資は急減しますが、それでも戦争優先を堅持していたため、1944(昭和19)年ともなるとあらゆる物資が不足。戦争に必要で使えそうなものは、手当たり次第利用するようになります。
そして、戦争の最も基本的な物資「火薬」の製造を維持するため、1944年11月、全国で綿の回収を始めます。下写真は、そのころの綿回収の隣組回覧2種類です。
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下写真のチラシは、愛媛県と大政翼賛会愛媛県支部の連名で「綿に動員下令」とあります。
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火薬の原料すら家庭の綿に求めるほど、兵器の原料がひっ迫している中、「待望の神機到来!!」という言葉に、どれだけの人が「そうだ!」と心動かされたのか。文章を書いている人の頭の中だけだった、というのは現代の感覚で、もしかしたら、多くの人が「そうだ!」と奮い立っていたかもしれません。「神鷲二人を生んだ我らが郷土愛媛です」と、体当たり攻撃である神風特攻隊に事寄せて協力を呼び掛けています。
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もう1枚は、千葉県と海軍省、内務省、軍需省、農商省の連名。赤字で目立たせ「戦場ハ既ニ我ガ本土ニ拡大サレテ居マス」と現状の危機感を示していますが、表題は「火薬用ノ古綿ヲ供出シマショウ」と淡々とした呼び掛けです。
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戦争末期になりますと、同じころ取り組みが始まった松根油の採取など、効率とか考えずに、とにかく「戦争のため何かをやっている。役立つかどうかなんて考える必要はない。黙々とやる」状態が次々と起きてきます。神がかりでもなんでも、何かに取り組んでいる間は、空襲や敗戦といった不安を忘れることができたのでしょうか。それとも、最後の1人まで天皇の赤子として忠誠を尽くすとの意気に燃えていたのでしょうか。はたまた、同調圧力でとりあえず一緒にやる、と動いていたのでしょうか。
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鳥居民氏の「昭和二十年」シリーズでは、生産に追われる工場の担当者の話が出てきます。空襲で工場が破壊されると、これで出荷できない理由ができたと思ったということです。軍隊の言うまま、政府の言うまま、とにかく動かされていた、従っていた、という実情をよく表す言葉ではないでしょうか。
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