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「兵は凶器なり 戦争と新聞1926‐1935」を読むー新聞は政府や軍の横暴を抑える力を持ちながら、満州事変から逆転

 「兵は凶器なり 戦争と新聞1926—1935」(社会思想社・前坂俊之著)は1989年の発行と35年前の本ですが、現代のマスコミにも通じる書であり、まさにこの書で書かれているような経過をたどって欲しくないと思える内容です。新聞記者でもあった著者の目は、ただ乱暴に表面をなぞるのではなく、深く内情を考察しつつ、そのうえで、政府の批判者としての新聞がなぜ戦争遂行の旗振りになったのかを丁寧に書いていて理解が深まります。

「兵は凶器なり」

 まず、目次を見てみます。最初に朝日新聞が戦後に掲げた国民へのお詫びともいえる「自らを罪するの弁」をとって、敗戦後の各新聞社の対応や当時の考え方を紹介します。
 例えば著者自身が属した毎日新聞について、幹部の言葉から2点をただし「一たび戦争になった以上戦争に協力することが国民の義務であって」に対し、「戦争への道に協力したこと、戦争を防ぎえなかったことが問われている」と反論。「新聞の自由を失い、新聞記者の矜持と活動を奪われるという大きな損失を防ぎえなかった」という点に「新聞記者の矜持や活動制限以上に(略)国民の目と耳をふさぎ、戦死させていった重大な責任こそが問題なのである」と厳しく指摘します。そして他社幹部の話も含め、不買運動や発禁の連続などで会社が潰されるということへの心配から軍や政府に屈服した姿勢を「『国家や国民の運命よりも、自社の延命が大事』という思考と直結している。これこそ言論機関としての使命の放棄ではなかろうか」と追及します。
 終戦時の反省の弁が最初に置かれているのは、新聞・マスコミのあるべき姿を、まずは強く示すためだという狙いが見えてきます。

「兵は凶器なり」目次

 そのうえで、「言論弾圧法の実態」「吹き荒れる言論への暴力」といった章で、当時の新聞社が置かれていた厳しい環境を伝えています。言論弾圧法では、明治政府発足後、間もなく「1868(慶応4)年6月18日、新政府は治安維持の必要上、許可なくして新聞の発行を禁止」したのに始まり、翌年の1869(明治2)年3月20日、「新聞紙印行条例」を布告、「新聞紙の発行を許すと同時に厳重な取締り」を行っています。これが「新聞紙法」につながります。
 新聞を弾圧する法律は、近代日本の発足と同時に始まっているのです。それは、権力者にとって情報社会は良い面も悪い面もあることを、時の権力者自身が敏感に感じ取り、極力権力を維持できるように操作する狙いがあったといえます。

 そして弾圧法規の特徴は、権力者が恣意的に使えるような「あいまいさ」が必ず入っていることです。「新聞紙法」の禁止事項では「朝憲紊乱、安寧秩序の紊乱」という抽象的な表現が入っており、昭和に入ってからは「治安維持法」とセットで猛威を振るっていきます。
 特に著者は新聞紙法が治安維持法に比べ軽く見られている点を指摘し、新聞紙法第23条「内務大臣は新聞紙掲載の事項にして、安寧秩序を紊し、又は風俗を害するものと認めたる時はその発売及び頒布を禁止し、必要においてはこれを差し押さえることができる」を例示します。これでは抽象的で何が問題になるか分からないことから、当局は重大な事件について、何が禁止事項になるか通知することで世論を操作でき、新聞社も発禁を免れるという仕組みとなっていました。そして満州事変以後は軍部も新聞の統制に乗り出し、憲兵が執筆者らの調査や訪問を行い圧迫を加えました。
 こうした「表向き」の新聞への抑圧があっただけではありません。権力者は警察や、結託した右翼勢力や暴力組織を使い、新聞社への暴力行為で威圧します。日本刀やピストルを持った暴漢が押し入り、記者が負傷するようなことがあっても、犯人を捕らえたとして、すぐに釈放されるといった状況でした。

 そうした法律や暴力に抗いながらも自主的な「社会の木鐸」としての新聞を発行する努力がなされてきたのですが、目次に並ぶ満州事変、爆弾三勇士、国際連盟脱退、五・一五事件、滝川事件、天皇機関説ーといった節目を過ぎるたびに、言論が抑えられ、あるいは権力に迎合し、最終的に言論機関が自らの首を絞めていき、戦時下、軍と政府の広報紙に成り下がらざるを得なくなっていった経過を克明に記しています。
 特に、満州事変勃発による速報合戦と、それまで満蒙の権益確保という考え方に疑問を呈してきた大阪朝日新聞の社説が大物右翼の介入で曲げられたとみられることを、象徴的な出来事として触れています。政府関係者の間にも満州事変の発端は謀略という意識があったことを各新聞社が明確にして疑問を投げつければ、あるいは軍の暴走を止め、満州国建国ー連盟脱退の流れを避けられたかもしれません。しかし、戦争報道は軍が頼りですし、戦争のたびに部数を増やしてきたことから、新聞社は報道だけでなく、事業などあらゆる面で軍に協力して、本質を伝えなくなったことも事実だったこと、著者は冷徹に指摘しています。そこには、戦争という重大事に国論統一を図るのは当然とするナショナリズムの影も含めています。
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 そんな時代の流れの中では抗うこと、変節しないことはできないだろうと思えますが、著者は、その中にあっても正論を貫いた新聞社や新聞人らを取り上げています。そこに、希望が見出せます。
 五・一五事件で徹底的に軍部批判をし、正面から批判をしない大新聞をも批判した福岡日日新聞(現・西日本新聞)の菊竹六鼓と、言論を守り通した同社。「菊竹は軍人からの脅迫電話には『国家のことを想っとるのが、あなた方軍人たちだけと考えるなら大まちがいだ。国を想う気持ちはあんた方に一歩も劣りはせん』と激しくやりあった」。そして本人は毎朝、徒歩で出勤し、「死を賭しても言論は守るという気概に満ちていた」と。編集、営業の足並みは乱れず、著者はこの社の態度も賞賛しています。
 そして信濃毎日新聞も例示。特に三沢精衛編集長のコラム「拡声器」は事件翌日の夕刊で「『軍人ならば会ってやろう』と気を許したのが運の尽き、犬飼さん、狂人に対する認識不足だった◇狂人といいたいが寧ろ『狂犬の群れ』だね◇この狂犬の群れが『祖国を守れ』か」と徹底的に皮肉ります。そして主筆桐生悠々は事件の報道が解禁された1年後、4回にわたって社説に取り上げ、こうした軍人を「名誉的犯罪として、政治犯として裁くことが、暗殺者を続出させた」として陸海軍当局の時代錯誤を指摘、事件の教訓を生かすも殺すも「国民の覚悟」とといているとします。
 新型コロナ下において「東京五輪の中止」を社説に掲げたのは、信濃毎日と西日本だけであったことは、全く偶然ではないでしょう。時代を超えた新聞社の矜持というのは、確かにあると感じられました。

 また、東洋経済新報の石橋湛山は、戦前、日本の植民地放棄を説いたことで知られています。朝鮮、樺太、台湾を独立させるなら、倫理的に世界の優位に立ち、また、正当な貿易で経済を発展させるほうが植民地経営よりもはるかに効率が良いとしていました。石橋湛山も常に批判的な提案を続け、後退を強いられながらも、その時の最善策の提案を常に押し通しています。
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 新聞は戦後、戦前とは比較にならないほど大きくなった一方、現在はネット社会の発展の中で、部数を大幅に減らしていく状況となっています。しかし、ネットで流通する情報で、新聞社やテレビ、ラジオ、雑誌などのマスコミが発信する情報は、やはり重いものがあります。SNSがいくら発達しようとも、マスコミが社会の木鐸としての矜持を維持するならば、決してその役割を終えることはないでしょう。
 さまざまな弾圧に抵抗して勝ち取ってきた言論、放送、出版の自由。これを無為にしないためには、発信者側はもちろん、受け手側の意識も大切なのではないでしょうか。そんなことを、この本は教えてくれます。ぜひ、歴史の節目を学びつつ、現代の情報社会を見つめてもらいたいと思います。

 最後に題名について。これは明治の日本海海戦の戦記「此一戦」の冒頭から取ったということです。反戦・平和主義者の海軍大佐だった水野広徳が著者で「日米戦うべからず」「戦えば必ず敗れる」と訴えた人物です。著者は「昭和の戦前は正しく『兵は凶器なり』の歴史であった」と前書きで触れています。今、本当の凶器は何であるか。それを見定め、二度と過ちを犯さないのがマスコミと国民の役割でしょう。

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