小学校への寄贈品は大砲の弾丸ー教育に役立つと村が感謝状
こちら、長野県小県郡神科村(現・上田市)の尋常高等小学校(現・神科小学校)への寄付に対する感謝状です。日付は1902(明治38)年12月21日。日露戦争が終わった年に、教育参考資料ということで寄付されたのは、以下の品でした。
ええっと、攻城砲の15センチ榴散弾と15センチ榴弾、野砲の9センチ爆裂弾と7センチ爆裂弾、信管各種、となっています。
村会が決議をして、そのうえでの村長からの感謝状、となっていますので、かなり喜ばれた様子です。残念ながら、現在、現物がどうなっているかはまだ確認しておりません。もし出てきたら貴重な品ですが、おそらく姿を消したでしょう。
戦争美化になるから撤去されたのか? 中にはそういう事例もあったでしょうが、おそらく、1941(昭和16)年の国家総動員法に基づく金属類回収令によって、供出されたのに違いありません。
当時の新聞を見ると、各地の神社や公園に展示してあった大砲や砲弾が1941年から1942年にかけて軒並み供出されていて、上田市の護国神社にあった機雷も供出されたぐらいですから、こうした小学校への寄贈品も見逃されなかったでしょう。
上の護国神社参拝写真には、機雷や砲弾が写っています。機雷の供出は、特に写真入りで報道されていました。
こうした供出は地元も熱心で、中には、砲弾が詰まったままの砲身を供出したものの、危険として差し戻され、地元の手で取り出して何とか献納という例もありました。
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当方が確認したものとしては、諏訪市の諏訪大社上社本宮に、おそらく日露戦争当時のものとみられる砲弾が奉納され、残っていました。
リアルな戦争資料というのは、使いようによっては戦争回避の役にも立ちます。そういう意味では、惜しいことをしました。基本的に当方は生活の視点からモノを集めていますが、こうした生々しさの残るものも、また別の角度から訴えかける力があるのではないでしょうか。何かの機会に恵まれましたら、ぜひ収蔵したいものです。