戦地の兵隊に送る軍事郵便、料金や諸注意を徹底ー出征兵士の地元ではお金を捻出、慰問状を送るなどしています
大日本帝国が起こした戦争は基本的に外征でしたので、戦時下、戦地にいる兵隊に手紙や物を送る時には、荷物の重さ制限や軍事郵便と明記するなど、いろいろ決まりがありました。こちら、長野県小諸町(現・小諸市)の小諸郵便局では、そんな手続きや送付の注意を書いたチラシを作製し、戦地への慰問を呼びかけました。
郵便料や小包郵便料は具体的に表示、小包は書留に限られ、重さも通常より制限が加えられたようです。また、通常郵便については航空郵便としての扱いも可能で、満州、北支、上海と地区ごとに料金を分けて記してありました。
差し出しの注意書きです。軍事郵便とできるだけ朱色で記入すること、宛名の肩書は出征する前にいた部隊のいた場所ではなく、駐屯地名と所属部隊名、海軍の場合は艦隊と艦名を書いて出すこととしています。
また、小包郵便については、時間がかかることを前提とし、腐敗しないようにすること、そして手紙は入れないー検閲できないーこととしています。実際、軍艦の乗組員の手元に実家から小包が届いて、開いたら箱一杯のもちでカビがびっしりと付いており、捨てざるを得なかったという話もあります(「海軍めしたき物語」高橋孟著・新潮社より)。当時の包装した羊羹なども腐ることが多く、三越などは「缶入りカステラ」などを慰問品として紹介していました。
そして、1937(昭和12)年発行の愛国切手などを使うよう、宣伝しています。愛国切手、愛国郵便とも、民間航空発展に使う、日本初の寄付金付きでした。
そして地域では、慰問状などを差し出しやすくするため、地元出身の兵士の現在の所在地をまとめて配布するなどしたようです。こちらは長野県上田市の鍛冶町区が1938(昭和13)年に作った名簿です。
軍事郵便が適用される、出征中の兵士をはっきり区別。部隊名は情報を伏せるため指揮官の名前の苗字を充てて表現してあり、遠山部隊が松本歩兵第50連隊、山本部隊は松本で臨時編成した歩兵第150連隊のことで、その下は中隊長などの名前とみられます。
徴兵検査で甲種合格し、くじも通って現役兵として入営し訓練中の兵士らで、前線にいないことから、それぞれの所属地宛てに送ることになります。
一方、こちら長野県中野町(現・中野市)赤岩地区の1938(昭和13)年度の書類ですが、「昭和十二年七月より日支事変応召兵所属部隊」と題して、手描きの名簿が入っていました。出征中の兵士のみで41人に上り、全員に1938年2月23日に慰問状を送ったと記してありました。
こうした名簿の管理は、発送する前に兵事係に確認して行っていたのでしょうか。また、分かる範囲で追記していった様子です。そうして戦地に送られる軍事郵便は、こんな感じになるのでした。こちらは長野県上片桐村(現・松川町)の役場が1938年6月に慰問用の地元新聞を出したもので、第三種郵便なので5厘の切手で出せました。宛名は部隊名で、軍事郵便の朱印もおしてあります。
こうして兵士の元に郵便物が届いたのです。戦地の兵士にとって、郵便物は嬉しいものですが、時として、宛名人死亡に付き返送との付箋付きで戻されることもありました。戦場の現実は、そんな時に感じられたことでしょう。自ら戦争を起こし「軍事郵便」が必要となる事態を呼び込まないよう、できることをしていきたいと思っています。