靖国神社で執り行った戦死者を合祀する「臨時大祭」に合わせて遺族が手にしたもの
戦死者を「護国の神」として合祀する靖国神社でかつて執り行われた臨時大祭は、遺族にどんな手順で案内を送り、遺族は何をもらったか、手許にある資料を集めました。こうしたものは消耗品だったり、現場で引き換えるものだったりするため、一人のまとまったものは入手しがたいのが実情です。また、世代を経るにつれ大事なものだけとっておくようになることも影響しているように思われます。戦時下の庶民に絡む資料全般に言えることですが、靖国関連の資料は、戦死者がおり、遺族がいて、国家がどう向き合おうとしたか伝えるためにも、断片を集めていきたいと思っています。
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敗戦前は、戦死者は靖国神社に「護国の神」として祀られることになっていました。自分の死んだあと、神とされ、当時の最高権威の天皇が奉拝し、遺族にも会えると信じることにより、戦場に出向く心持ちを少しでも和らげ、また、日本独特の「鴻毛より軽い」命を差し出す環境を整える効果があったのも確かでしょう。明治維新以来の戦死者を祀るといっても、天皇を担いだ側に敵対した「朝敵」は祀られません。基本的に、国が起こした戦争への協力者が祀られるのですが、遺族の心のよりどころとなり、少しでも辛さを和らげる効果を期待したとすれば、それが肉親を戦地に出させる力になったことでしょう。本人の気持ち、肉親の気持ち、両面で戦争遂行に役立つ存在だったのが、靖国神社というものでしょう。
さて、戦場で戦死者が出て、合祀の手続きが進むと、遺族の手元に合祀のための臨時大祭開催の案内が届きます。戦死してすぐというわけではなく、張鼓峰事件の戦死者は2年後の臨時大祭で合祀されています。こちら、臨時大祭委員から長野県の遺族に届いた封筒と、内容物を記した袋です。袋の中には、案内状と、後日に使う軍人遺族記章の申請書が残されていました。
旅費関連の書類は使われてしまうので、まず残りません。1942(昭和17)年4月の臨時大祭に招かれた北海道の方の「参列遺族案内書」がありますので、こちらを見ますと、「証明書」は遺族であることの証明で、案内書にとじ込んでありました。裏見返しの部分が切り取られているので、ここが「参拝証」で、拝殿に上がってからさまざまな品と引き換えに切り取ったものです。
この案内書によると、招魂式が夜に終わるので、翌日以降、昇殿参拝を順序だてて行い、ここで神床、お札、神酒、神杯、神菓などを参拝証と引き換えに受け取ることになっていました。
なお、遺族章は出発時から落ちないように服の左胸に結いつけるようにとの指示がありました。こちらは入手できておりませんが、遺族番号が記されていて、確認できるようになっていました。
臨時大祭のため上京し、指定された場所で受付をすると、記念の絵葉書と記念品が贈られました。こちらの絵葉書は富山県のご遺族が1939(昭和14)年の臨時大祭で受け取られたものです。
招魂式を済ませ、翌日以降の昇殿の様子は、1942(昭和17)年10月の臨時大祭記念帳にも載っています。神酒をいただく写真もあり、ここで使った杯を持ち帰ったとみられます。
臨時大祭では、招魂式の夕食代用にパンを、その後の昇殿参拝や慰安会などの会場で昼弁当を提供しています。こちらが、1942年4月の臨時大祭で配られた当時の弁当箱とみられます。腐らないようパンや乾パンなど配慮されたものが入っていたであろうと思われ、弁当箱はきれいな状態です。
こうして遺族は帰途に着きました。一方、臨時大祭の案内と一緒に軍人遺族記章の申請書も残されていましたが、同封されていたかどうかは定かではありません。いずれにしても、これを申請すると授与証書と記章を受け取れました。記章を着けられる人は限られていて、継承者が変わったり亡くなった場合は届け出が必要でした。
なお、全国の戦死者を慰霊している長野市の善光寺では、財団法人善光寺保存会が永代供養を受け付けていました。こちらが保管証です。
このようなものが靖国神社臨時大祭で使われ、遺族への配慮として軍人遺族記章や永代供養もあったことを伝えさせていただきました。こうした仕組みが遺族を支えていたことが分かります。一方、こうした仕組みを整えることが兵士を戦場に送り出すためには必要とされ、明治維新後、戊辰戦争の終わった明治2(1869)年に官軍兵士を祀る護国神社から始まり、後に靖国神社と改称し、その役割が鮮明になってきます。
そうした戦争システムの中で生み出された靖国神社であり、たとえ民間の宗教法人となったとしても、遺族が平安を取り戻す場であると同時に、敗戦までの日本軍国主義の象徴であり続けるのは間違いないところです。各国とも軍隊と宗教は密接な関係を持っていますが、いずれも既存の宗教の延長であり、戦争のために新たに作られ、信教に関わらずまとめて祀られる靖国神社とは一線を画します。そんな事実が、こうしたモノからでも伝わってくれれば良いと思うのです。
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