満蒙開拓青少年義勇軍に志願した少年が、中国の訓練所青年学校で受けた試験問題とはー当時の教育の一端を知る
1936(昭和11)年、二・二六事件の戒厳令下で発足した広田内閣は、満州への農業移民百万戸送出計画を立てます。1931(昭和6)年9月18日の柳条湖事件を引き起こした関東軍が現地に日本の傀儡国家「満州国」を建国したものの、日本人の人口比率が少ないため、それを増大させるのが目的でした。
ところが、1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件に端を発した日中戦争が本格化し、戦時国債を発行して調達した資金で軍需産業が活気を見せると、農業移民熱は下がってしまいます。そこで青少年を訓練し、開拓させる「満蒙開拓青少年義勇軍」による移民に力が入れられるようになりました。
茨城県の内原訓練所で2カ月ほどの訓練を経た後、満州国内に設けた義勇隊訓練所(ソ連を刺激しないように義勇軍から義勇隊と呼称を変えた)でさらに3年ほど訓練を重ね、最終的に20町歩(共有地の持ち分含む)の地主になるというものでした。が、その開拓地はソ連との国境近くに設けられ、ソ連の矛にも盾にもなる存在でした。
長野県では教員赤化事件と言われる二・四事件を起こしていたことから、信濃教育会が率先して勧誘したこともあり、全国一の送出を果たします。長野県西筑摩郡日義村(現・木曽郡木曽町)出身で尋常高等小学校を卒業して1939(昭和14)年に満蒙開拓青少年義勇軍に志願した田沢安夫氏も、そんな一人でした。田沢氏は茨城と満州の訓練所を経て1943年に農業移民となって入植したところで翌年、徴兵検査のため帰郷。合格して新潟の部隊で訓練をしたのち、静岡県内の本土決戦師団に配属されたところで敗戦を迎えます。
なお、義勇隊訓練所には国内と同様、小学校卒業で上級の学校に進学しなかった青年のための青年学校も設けられ、田沢氏もそこで学びました。満州開拓移民の青年がどんな教育を受けていたか。田沢氏が帰郷した際に持ち帰ったとみられる試験問題があり、そこに当時の青年教育の一端が見えますので、以下に転載します。
昭和十六年度満州開拓青年義勇隊訓練所青年学校 学科査問題
小隊 科 第 学年 氏名
一、修身・公民
次に答えよ
イ、大東亜戦争の目的を問う
ロ、大東亜戦争遂行のため、開拓者として最も重要な任務
ハ、統制経済とはどういうことか
ニ、皇軍は、なぜ強いか
二、国語
イ、次の漢字に読み仮名をつけよ
アジアの東、聖土あり、天地の正気あつまりて
積むや芙蓉の峯の雪、咲くや万朶の桜花
ロ、次に答えよ
聖土とは何を言っておるか 芙蓉の峯とは何のことか
ハ、次の○○の中に適当な漢字を入れよ
一斉○○の的となった○○は鮮血に染まって大地の上にあった。○○空しく屍をハルピンの野にさらしたけれど○○は遥かに○○の空に飛んだのであろう
三、地理科
次に答えよ
イ、今まで東亜における米英の最も重要な根拠地であった所を二つあげよ
ロ、満州の気候と日本の気候の最も違う点をあげよ
ハ、日本が東亜を救うために戦った中、一番重大であった戦争の名をあげよ
二、西洋諸国が支那に対して行ったやり方(政策)につき記せ
四、数学科
イ、500円を日歩2銭で30日間借りると利息はいくらか
ロ、甲は10円、乙は8円のこづかい銭を有し、甲は毎日1円20銭、乙は
毎日80銭を費やすとき、何日後、両人の所持金が等しくなるか
※問題文はカタカナや普段使わない漢字を平仮名にし、適宜読みやすく手直ししました。
模範回答はある程度お示しできますが、この時代の「空気」にひたり、各自で解いてみてください。あるいは、この問題に向き合うことで、この時代の「空気」を感じてもらえれば幸いです。
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青年学校での学習は、基本的に、日本が東亜の指導者となること、米英勢力があくどいことなどを叩き込む者であったことが明らかに見て取れます。これが、国家の政策に迎合した教育であり、国定教科書を使った教育であったのです。こうして訓練に、教育に、枠をはめられて、国の望む青年が育てられていったのです。そしてそれを信じて進んだ悪意のない青年たちが、一番憎まれ、殺し合う立場に追い込まれた過去を忘れてはいけません。
現在、教科書が民間会社によって作られ、選考は各県にまかされているのは、こうした戦前の国の政策を時々に反映させていく教育への介入を避けるための方策なのです。そこには、世界市民として、広い視野を持たせる狙いがあったのは言うまでもないことでしょう。
しかし近年、次第に政治の教科書や教育現場への介入が目立ってきているばかりか、偏狭な視野で「日本スゴイ」を教えて他国を見下すような、敗戦前の、まさにここに示したような教科書まで出てきています。特に幹部自衛官を育てる防衛大学校に、そうした皇国思想を賛美する講師が呼ばれ、それに否定的な考えを持つことを戒めるような指導がなされていることは大問題です。若者がどんな情報に接し、どんな教育を受けるか。実は、そこが戦争を二度と起こさないようにするための、一丁目一番地と言ってよいのではないでしょうか。
若者が正しく過去の成果も過ちも知り、そのうえで現在の幅広い社会の構造に目を向け、構成員の一員として将来を見つめられるよう、できる限り情報を発信していく所存です。それは、一人一人ができる、戦争のない未来を作る一歩ともいえるのではないでしょうか。