1933年2月4日、長野県で労働運動幹部摘発始まる。教員も多く「教員赤化事件」として大きな騒ぎに。
1924年から数えて91年前の1933(昭和8)年2月4日、満州事変もいまだ収まらない中で、長野県では共産党関連団体など労働運動幹部の一斉摘発が始まりました。いわゆる「2・4事件」ですが、起訴された77人中、教員が29人もいたことから「教員赤化事件」として全国から注目されます。
当時の信濃毎日新聞では、当初、労働運動関係者の摘発が2月4日から始まったことは伝えられていましたが、諏訪地方や伊那谷を中心に多くの教員が逮捕されるに至って報道が禁止され、ようやく同年9月15日、報道解禁となりました。下写真は解禁日の読売新聞夕刊で「長野県の教員赤化事件」と見出しも取り、夕刊1面のニュース部分をすべてこの事件の関連記事であてています。「教壇から純真無垢なる児童に赤色思想を注入」したのが罪とされ、各方面に大きな影響を与えたことがうかがわれます。
長野県内の教員らでつくる信濃教育会は事態を重く見て、報道解禁前の6月18日の総会で「一層敬神崇祖の念を喚起し日本精神の真髄を発揮すること」などとした宣言を出し、新聞報道から約2週間後の9月28日、この宣言と対策を掲載した冊子を発行いたします。
対策としては「国民的自覚を促し欧米崇拝の弊風を打破」「家族制度の美風を一層啓培こと」「国民教育者たるの使命を自覚し教育精神を確立」などを挙げています。つまり、皇国史観の徹底に全力で取り組むということです。こうした事態があったことも影響してか、信濃教育会はこののち、満蒙開拓青少年義勇軍の送り出しに極めて熱心に取り組むことになり、全国一の送出数を送り出し、結果として多くの犠牲を生んでしまいます。
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また、「長野県ニ於ケル小学校教員ノ赤化事件概況」と題した報告書には教育の様子や子どもの作文などもまとめてあり、指導内容は例えば「神武天皇より崇神天皇に至る10代の間600年、即ち1代60年平均の永きは到底首肯し得られざるところにして、之は日本皇統連綿を態よく装わんが為のものなり」など天皇制への懐疑や自治活動、戦場の実態などを取り上げています。
その結果としての児童の作文で「戦争をやらないようになったら」と題した作文では、満州で勇敢に戦うより「日本を戦争をしない国にすることに骨を折った方がいいと思います。(略)軍事費などがいらなくてその費用を貧しい人に恵んでくれると、それだけ困っている人が救われる」などと書いています。逆にいえば、今では当たり前と思える考えも、当時は「アカ」として許されなかったことが分かります。
そして、この事件が起きた背景として、経済要因が挙げられています。1929(昭和4)年からの恐慌で町村の財政が苦しくなり、当時は町村財源で支払っていた教員に対する俸給の支払遅延や、教員に町村への寄付を強要すること、教員というだけをもっての特別税徴収などがあり、こうした行為が地元の人たちと教員の関係を疎遠にし、教員の熱意を冷やしたばかりか、町村民の教員に対する尊敬の念を失わせたと指摘しています。
さらに、児童の生活窮乏の事実が青年教育者を刺激し「その原因を現代経済組織の欠陥に求めんとするに至らしめ」としています。
教員を経済的に締め上げ、その中でも熱意を失わない教員が同様の境遇にある児童を何とかしてやりたい、とすがったのが、現状打破の思想だったということです。
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長野県の各町村では、この事件を受けてか、俸給未払いが劇的にすくなくなったと、当時の信濃毎日新聞は報道しています。しかし、教育内容についていえば一層の精神的な締め付けでしかなかったのが、事件の摘発と信濃教育会の宣言に表れています。そしてこの事件を発端として、あらためて天皇を中心とした国に生きる臣民としての「精神作興」が強く推進されていくことになるのです。合理的思考や経済の不公平などの根本に触れずに。