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貴重な実物資料の背景を調べるにも、本は不可欠。膨大な記録を残してくれた先人のおかげで実物資料も目覚めます

 情報の収集は、さまざまな方法があり、いずれが上か下かというものではありません。集まった情報を突合せ、矛盾点が出てくればそれが書かれた背景や書いた人の思惑なども加味しつつ、できる限り事実に近づく結論を得ようと努力します。本も聞き取りも公文書もネット情報も、事実に近づくためには何でも使います。
 入手したある資料の背景を知る為に、どんな手間をかけるか。当方の主な調査は実物資料という存在の裏付けですから、そこまで大変なことはありませんが、やはり本の情報が不可欠でした。

中国から帰国した方が使った腕章
荷物に付けたとみられる名札

 上写真の2点の資料から、個人名、日本の長野県の住所、帰国前にどこにいたか、そして少なくとも1946年9月5日以降に米軍供与のLSTに乗船し、帰国したと思われることまでは分かります。しかし、この方がどういう立場の方か、開拓団員か、普通に満州で働いていた方か、などは分かりません。

乗船する帰国船の名称

 長野県の方なので、そこで頼ったのが、長野県開拓自興会が1984年に発刊した「長野県満州開拓史」全3巻中、名簿篇と各団編でした。

頼りにした本

 まず、名簿篇で地道に当たります。埴科郡出身を頼りに、探していきます。探し当てた時は、本当にうれしかったし、帰国も確認できて安堵しました。

長野県の開拓関連、3万人以上の名簿
死亡、帰還など、運命の別れに涙します
発見!

 東索倫河(そろんほ)埴科郷勤労奉仕隊の一員と分かりました。勤労奉仕隊は女性を中心とし、開拓団の農繁期を応援する部隊で、適齢期の女性を「大陸の花嫁」候補とする狙いがありました。短期支援ですから1945年でしょうが、いつごろ満州に行った奉仕隊なのか。これを「各団編」の東索倫河埴科郷を頼りに探ります。

団ごとの記録を残した「各団編」で発見

 開拓団も何次にもわたっているので、地道にこれも奉仕隊の記述を探します。ようやく第十次の団で発見しました。そしてこの方は青年学校の教師で副隊長であったことから名前が出てきて、1945年5月半ばに現地に入ったことも分かりました。

ソ連軍の攻撃開始
開拓団の結末と合わせ、勤労奉仕隊の行動も分かりました

 経過では、22人の奉仕隊員は本隊と別れ、牡丹江のソ連軍の検問所で身柄を拘束されます。逃避行中、3人の女性が銃撃により死亡。隊長の男性はソ連軍に連行され行方不明、男子2人は射殺や病死となりますが、三輪副隊長は年少の女子隊員8人とともに長春市の収容所へ。翌年9月、皆で帰国します。残りの他の隊員は中共軍の看護、工場勤務などで遅れますが無事帰国。奉仕隊22人中、16人が帰国と判明しました。
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 ところで、上写真に「幼い子供は中国人に助けられ十数人が…立派に成人した」とあります。これが中国残留孤児です。
 この開拓団は出発時、229人いましたが、暴徒の襲撃などで帰国は17人のみ。残留者13人。200人余、9割が全滅していることを知り、冥福を祈りました。奉仕隊は、本体と別行動をとったことで幸い、多くの方が帰国されました。紙一重の判断で生死が分かれる戦地の厳しさ。そして日本の国策による中国人への圧迫の反発による犠牲となったのが、こうした弱い立場の人々だったこと、一方で、幼い子供を育ててくれた中国の方々もいたこと。さまざまなことが、この実物資料の調査過程で浮かびました。

 手間がかかり回り道のように思える調査ですが、そのような手間をかけることで、より多くの事が伝わること、ご理解いただければ幸いです。


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