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戦時下の戦争生活を、強引にけん引したのが翼賛壮年団。しかし長野県では、お妾さんの戦力化画策を機に失速か
1940(昭和15)年当時、枢密院議長をやめて軽井沢で静養していた近衛文麿が、軍部を抑えるための国民組織が必要として中央に戻り「新体制運動」を始めましたが、政党、官僚、軍も「バスに乗り遅れるな」とそれぞれの思惑で集まってきたため「大政翼賛会」という名称は決まったものの、組織の性格を巡ってまとまりがつかなくなります。
その後総理になった近衛をトップとした大政翼賛会は、政治結社ではないこととなり、同年10月12日の発会式では綱領もできない中、近衛が「本運動の綱領は、大政翼賛の臣道実践ということにつきる」と挨拶。結局、隣組を最下部に、そのときどきの国の目標を臣民に遂行させる基本的に「上意下達」の組織として官僚的に運営されていきます。そして、政治については翼賛政治会、具体的な行動部隊として翼賛壮年団が結成されるのです。
以下、岡谷市翼賛壮年団の資料を中心に見ていきます。
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県知事や市町村長が各地区のトップとなった大政翼賛会を尻目に、長野県の翼賛壮年団は金属回収、米や木の供出、耕地整理、健康保険組合加入推進といったさまざまな運動を矢継ぎ早に展開し、隣組長らをあわてさせます。
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翼賛壮年団の運動は、さらにエスカレートしていきます。1942(昭和17)年にはさらなる金属回収に取り組んだほか、1943(昭和18)年初頭には、「国民総武装運動」として竹槍作りも始めていきます。
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しかし、その中で最も地域の有力者の逆鱗に触れたとみられるのが「国民皆働運動」でした。1942年末から「未活用勤労力の活用」に関して、有力者の愛人=蓄妾も生産現場に出てくるべきだとし、愛人をやめるよう、本人や愛人を囲っている有力者に説得をしかけたものです。もっとも、1942(昭和17)年10月ごろは、岡谷市翼賛壮年団も芸者を上げた宴会を開き、そうした精神には沿わない特権的な余裕を見せていましたが…。
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こちらは、国民総武装運動の実践などと並行して行っていた蓄妾調査に関する問い合わせ各地区の問い合わせに、長野県翼賛壮年団本部長が返信したマル秘扱いの説明資料です。
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そして、この活動が新聞でも取り上げられるようになってきたころ、次期も本部長を担当するはずだった木下本部長が召集され、団を離れることになります。そして、その後はこの運動がうやむやになっただけでなく、後継の団長らもなかなか決まらない混乱を見せていました。
当時の長野県の新聞資料を分析した「日米決戦下の格差と平等」(板垣邦子)では、木下本部長の応召について「翼壮の勢力をそごうとする側からの陰謀であったろう」と指摘。これにつれてもともと翼賛壮年団に引っ張られていた大政翼賛会自体も活動が沈滞し、翼賛壮年団も活動は続けたが勤労奉仕団体化していったと推定しています。
◇
建て前では、隣組の声を上に挙げて現場の改善につなげる「下意上通」もできることになっていましたが、基本的に上から指示を与える大政翼賛会、その中の一組織であった翼賛壮年団は、下からの支えがない点では同じで、運動が瓦解したのでしょう。同時に、戦時下の窮乏生活を平準化しようとすれば、どうしても有力な中産階級以上からの収奪が激しくなるという側面も、上下関係で整えられた社会においてはブレーキとなったことでしょう。もし、大衆から盛り上げた運動であったならどうなったか。この上下関係を破壊する力まで持てたでしょうか。
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